あの日、宙を飛んだあなた

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 私の母は昔からひっきりなしに私に習い事をさせる人だった。  何か一つ、一番になれるものがあると人生が変わるのよ。そう母に言われるままにピアノを習い、水泳を習い、習字を習った。  私は要領が悪く、覚えるのも遅くて、どれも母を満足させる結果にはならなかった。  フィギュアスケートも母が勧めてきたものの一つだった。  小学生二年生の頃。電車に乗って母と一緒にスケートリンクに行き、借りたスケート靴を履いて初めて氷の上に降り立った。  私は今まで母に言われてする習い事を楽しいと思ったことがなかった。できないと困った顔をされて「向いてないのかしら」と言われるし、上手くいったら次を求められる。楽しいなんて思う余裕もない。それでもしなければいけない義務のようなものだった。  新しく習い事を始める日は特にいつも憂鬱だった。母はニコニコして「きっと今日は特別な日になるわ」といつも言うけど、私にはそうは思えなかった。  初めてなのに上手くできるうちの子、というのを期待している母が私の要領の悪さを見て落胆するのがわかっているからだ。楽しくなんてなれっこない。  だけどその日は違った。上手くできなかったらどうしよう、と私がおどおどとスケートリンクの中を見渡していると、ひときわ綺麗に滑る子がいた。  私と同い年くらいに見えるその子の滑りに、私は見惚れていた。もっと近くで見たくて怖がることなく自然に氷の上で足を踏み出していた。  その子は全然転んでないわけじゃなかった。きっと難しいことに挑戦しているのだろう、何度も氷に体を叩きつけていた。でもその子は何度でも立ち上がった。氷の上が自分の居場所だと信じているように。  シャッ、と音を立てて助走をつけ、その子が氷から離れた。私が立っているのも必死なその場所で、彼女は軽やかに飛んだ。  くるくると二回まわって、彼女は颯爽と降り立った。私だったらきっと地上でもできない鮮やかな動きだった。  そしてその子は私を見た。ぱちりと合った視線に顔が熱くなるのがわかる。氷の上に私と彼女しかいないかのような錯覚に一瞬陥ってしまう。  にこ、と笑って彼女はまた滑り始めた。きっとみるからに初心者で習い初めの私に優しくしてくれたのだろう。  でも私は思った。あの子の隣で滑れるくらい上手くなりたいと。  そう思った瞬間に全てが変わった。母に言われて嫌々来た習い事ではなく、とても楽しいことをしているんだと思えて、いつもみたいに体が強張ることはなかった。  氷の上はとても転びやすい。私は何度も転んだ。このためにヘルメットをかぶらされたんだなとすぐにわかった。  全然上手く滑れなかったし、とても寒いし、体も痛いのに楽しかった。  氷がきらきらしてて、周りをくるくる滑ってる子みたいになりたくて、何より彼女の隣に並びたくて、私は必死に足を動かしていた。  楽しくて楽しくて仕方のない、特別な一日だった。母の言っていたことが初めてわかった気がした。私はきっとこの日を思い出して何度も心を高鳴らせるのだろうと思ったから。  帰る時間になる頃には少しずつ転ぶ回数が減った気がしていた。  だからきっと母にも褒めてもらえる。そう思っていたのに「スケートを習うのは辞めにしましょう」と唐突に母が言った。  空手もそろばんも体操も、私が上手くできない習い事を母がすぱりと辞めてしまうのはいつものことだったけど、今回は動揺した。  いつもならもうやらなくていいんだと安心していたけど、今回は違うのだ。  だって私は、辞めたくないのだから。 「え、あ、でも」 「芽衣はフィギュアスケートには向いてないわ。向いてないものを続けたってね、仕方ないもの。大丈夫、次があるわよ。バレエなんかどうかしら、それとも歌とかの方が」 「まって、おかあさん」  いつもなら全部「うん」と頷いていたけど、このままではもう滑れなくなってしまうと勇気を出して口を開く。 「わ、わたし、もうちょっとやりたい……」  母は私がこんな事を言うのが初めてだからだろう、目を丸くして私に顔を近づけた。 「でも芽衣、あんなに転んでたじゃない。何回も何回も。痛かったでしょう?」 「そ、うだけど、でも、先生も、みんな転ぶって……」 「上手な子は転んでなかったわ。才能がある子はね、きっと最初から滑れるのよ。芽衣には向いてないの、お母さんにはわかるのよ」  向いてるか、向いてないかなんて、私にもわからない。母の言う通り私は向いてないのかもしれない。それでもやりたいのだ。ほんの少しずつでも上手くなって、あの子の隣を滑りたい。 「でもお母さんびっくりしたわ。芽衣、全然泣かずに起き上がってたもの。芽衣にあんなに根性があるなんて知らなかったわ。やっぱり次に習うのはスポーツがいいかもしれないわね。きっとすごく上手くなるわよ」  母はもう次のことしか見えていなくて、私はそれ以上強くも言えずうつむくことしかできなかった。  その日から今日までずっと、私はスケート靴を履くこともできないでいる。
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