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結局、それからもいくつも習い事をして、それでも私に合うものは見つけられなくて、中学生になる頃に母はようやく私に何の才能もないことを悟った。
私の妹の陽葵がテニスで活躍するようになったからもう私に期待する必要が無くなったのかもしれない。
これからは芽衣ちゃんの好きなことをすればいいからね、どんな芽衣ちゃんでもお母さんは大好きだからね。自分に酔っているような台詞を言う母に抱きしめられたけど、私はただただこれ以上嫌な事をしなくて済むと安堵していた。
でも諦めるならもっと早く諦めてくれればよかったのにとも思った。
そうしたら、フィギュアスケートを続けることもできたかもしれないのに。
私の頭の中にはまだあの時の綺麗に飛んだ女の子の姿が焼き付いていた。
その女の子に再会したのは中学生になってすぐだった。顔を見てすぐにわかった、飛永希があの時の子だと。
フィギュアスケートをしている、と聞いた時は体が震えた。
やっぱりそうだ、あの時の子だ。ずっと続けてるんだ。そうだ、だってあの子は特別にすごかった。きっと今でもすごいのだろう。いいな、きっと彼女はずっと特別なのだ。
私とは違って、飛永希は特別な人間だ。
「牧野さん、昼休みに私のこと見てなかった?」
放課後に帰る支度をしていると、いつもは早く教室を出る飛永さんが近づいてきた。急に声をかけられて肩を跳ねさせてしまう。
しかもやっぱり見ていたことに気づかれてたんだ、と顔から血の気が引くのがわかる。
「ご、ごめ、んなさ……」
「え、あ、いや違うよ! 怒ってるとかじゃなくて、えーと、スケートに興味あるのかなーって思っただけ。嬉しかったんだよ? ほら、席近いのに牧野さんとはあんまり話したことないしさ」
こちらを気遣うように慌てて言ってくれるのが申し訳なくて、ますます体を小さくしてしまう。
そんな私の緊張を柔らげようとしてくれているのか、ショートカットの髪を揺らしながらにこっと笑いかけてくれる。
「スケート、好きなの?」
「あ、そ、その、えっと、昔、ちょっとだけ、というかほんと、一日だけなんですけど、習ったことあって、本当はもっとしたかったんですけど……」
「そうなの? なんで辞めちゃったの?」
飛永さんの目がじっと私を見ていて、あの時の笑いかけてくれた顔と重なって、ぐ、と喉のあたりが苦しくなった。
「おか……母が、向いてない、って……」
あ、まずい、なんか泣きそう。と下を向いてしまう。教室で急に泣き出すなんて、変な子だって絶対思われる。ていうか飛永さんにも迷惑かけちゃう。
必死に涙を抑えようとしていると、飛永さんが私の袖を掴んだ。
行こ、と明るく言いながら私を廊下に連れ出して人気の少ない廊下の端まで連れて行ってくれる。
「ごめん、急に連れ出して。なんていうか、二人で話したくって」
飛永さんはごめんね、と言うけど私が泣きそうだって気づいて連れて来てくれたんだと思う。
「話蒸し返すみたいだけどさ、牧野さんが自分で向いてないって思ったなら仕方ないけど、今でも好きなら辞めちゃうのもったいないよ。しかも一日じゃ向いてるかどうかなんてわかんないと思うよ? 私は最初に滑った日のことはもう覚えてないけど、もう寒くて嫌ー! って叫んでたって親は言ってたし」
「そ、そうなんですね」
「あはは、敬語じゃなくていいって。ていうかうちのスケートリンク、滑る人少なくってさ。あんまり少ないと赤字経営になるじゃない? もし潰れちゃったらめっちゃ困るし、ちょっと誘ってみよっかなーって思ったの」
牧野さんもどうかなって思って、とこちらを気遣ってか軽く誘ってくれるのは本当に嬉しくて、でも私なんかで良いんだろうかって思ってしまった。
親にお願いしてフィギュアスケートを続けることも、自分からスケートリンクに通うことも、飛永さんに声を掛けることもできなかった私なんかが。
「でも、飛永さんは、特別だから、その」
「あー、さっきの話? 真由香ちゃんたちは確かにすごい選手だけど、私は全然特別じゃないよ?」
「ち、ちが、そういう、意味で、言ったんじゃなくて! と、飛永さんが、特別に、す、すごいって言いたくて」
ふ、と飛永さんが笑った。それはいつもと違う笑い方だった。
「ありがとう、でも私は特別じゃないよ」
さあっと窓から風が吹いて飛永さんの髪を揺らすから、綺麗だけど表情が上手く見えなくなってしまう。
「だって一度見ただけで、ああこの子は特別なんだってわかる子がたくさんいるの。真由香ちゃんみたいに四回転飛べる子もいるし、三回転バンバン飛んで踊りまでハイレベルな体力お化けみたいな子だっている。とんとん拍子に三回転アクセル飛べちゃった子もいるし。そういう子たちがさ、ジュニアで上位になってシニア大会に参加して、そこでもまた良い成績残しちゃったりするの。そういう子が、特別っていうんだよ」
飛永さんの声が掠れて聞こえて、私は心臓を掴まれたような痛みを感じる。
「私は、私がもう、この先どれだけ頑張っても、多分一位にはなれないんだって知ってる。諦めるつもりなんてないよ。最後まで頑張るし、どうせ優勝できないって諦めたりしない。全員が滑り終わるまで結果はわからないから。でも、でもね」
「と、びながさ」
「私は特別じゃない。なんにも特別なところがない。ここが一番なんだって、特別なんだって、言えることが一つもないのが、時々苦しい」
くるしいんだ、と飛永さんが本当に苦しそうに、溺れている最中の人のように声を出す。
「三回転アクセルがすごいジャンプだって言ったでしょ。それはほんと。私なんかじゃ、そもそも練習する段階にすらいけない。夢のジャンプ。というか、私はまだ三回転ルッツも安定してないの。フリップも微妙。連続ジャンプになんて全然できない。そもそもしょっちゅう二回転になっちゃうし」
特別ではないことを飛永さんは自分のこと全てを曝け出して私に伝えようとしているようだった。
「昔は教室の誰より私が上手いって自信を持ってた。私は特別だって、一番なんだって。すごく頑張って二回転アクセル飛べるようになって、いろんな試合に出て合宿に行って全日本にも出て……わかっちゃったんだ、私以上の人なんてたくさんいるんだって。私はもう、私が特別じゃないって知ってるの」
言葉を尽くされれば尽くされるほど、私には飛永さんが特別以外の何物でもないと思えた。
「ちがう」
思わず飛永さんの袖を掴んでいた。さっき私を教室から連れ出してくれた飛永さんのように。
「私にとっては特別だよ」
「え?」
「わ、私、昔、一日だけスケートしたその日に、飛永さんを見たことがあるの。飛永さんは覚えてないだろうけど、私は覚えてる。飛永さんがすごく、すごく綺麗に飛んで、私の中で本当に特別な子で、だから私はスケートが、好きに、なって、すごく、楽しいって……」
言えば言うほど顔が熱くなるのがわかったけど、なんとかして伝えたかった。もういいと諦めたくなかった。私はもう伝える事を諦めたくない。
「私にとって、飛永さんは特別なの」
力を込めすぎて肩で息をしてしまう。自分から飛永さんに手を伸ばしてしまったことが恥ずかしくて、つい離してしまいそうになったその時。
「覚えてるよ」
飛永さんの手が私の手をぎゅっと握ってきた。
「あの場の誰よりきらきらした目をしてた、あなたのことよく覚えてる。同い年の子がうちの教室に通うんだって嬉しかったのに、すぐに辞めちゃって寂しかった。今度会ったら話しかけようって思ってたのにさ。先生とはうちみたいに小さいとこじゃなくて他の教室に行っちゃったのかなって話してたんだ。辞めてたんだね。じゃああの時話しかければよかった。一緒にスケートしようって言えばよかったね」
「お、おぼえ、て……」
「私しか覚えてなったら恥ずかしいなって、今日まで話しかけられなかった」
ふふ、と笑いながら飛永さんが指を絡めてくる。私は目眩がしそうになりながらも飛永さんから目を逸らしたくなかった。
「私、やっぱり牧野さんと滑りたいな。だって私はきっと一生かけても一番にはなれないけど、世界一になるって夢は叶えられなくても、牧野さんと滑るっていう夢は諦めたくない」
「わ、わ、私も、あの頃、飛永さんの隣で滑るのが、夢で」
「あの頃? 今は? 今も夢だって言ってほしいな」
嬉しすぎることを言われるから、違う意味で夢に思えてくる。
「私ね、スケートはずっとするの。ずっと続けるの。選手じゃなくたっていい。仕事にできたらいいけど、できなくたっていいの。どんなリンクでもいい。滑られるなら。私のスケートができるなら……私はずっと滑り続ける。だってスケートが好きだから。それに、私が一番じゃなくても、牧野さんにとって私は特別なんだもんね」
だよね? とはにかみながら問われた私は迷う余地もなく頷く。
「誰かが、どうとかじゃなくって、飛永さんが、飛永さんだから、特別にすごいんだ」
心からの答えだったから、恥ずかしいなんて思う暇もなく応えることができた。
「ねえ、やっぱり、牧野さんももう一回スケートやってみようよ。私のずっと滑るっていう夢の中に、牧野さんがいたら素敵だから。ね、今日って予定ある? 時間あるなら行こうよ」
「い、今から?」
「そう! だって今日はあの時の子に再会できた特別な日だから」
飛永さんがそう言って私の手を引いてくる。
初めて氷に足を踏み入れた瞬間のことを思い出す。飛永さんの姿を見て、転ぶ怖さを忘れて滑った時のことも。もう一度あの時の楽しさを味わうことができるのなら、こんなに嬉しいことはない。
きっといつか思い出した時、私は今日を特別な一日だったと思うんだろう。
そう思える一日にするためにも、私は飛永さんの手をそっと握り返した。
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