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どこかで鳴く蝉の声を聞きながら、無言で帰り道を進んだ。
不意に桐谷が握った手に力を込める。
「なぁ、貞子さ。その格好──髪とか化粧とか、もうやめろよ」
その声はどこか怒っているようにも聞こえた。前を向いているせいで顔が見えず、余計に咲登子の中には不安が募る。
「……どうして?似合わない……?」
「似合うとか、似合わないとかじゃなくて……。ああいう勘違い野郎が他にも出て来たらどうすんだよ。今日は俺が居たけどさ、次どうすんの」
「…………それは……」
咲登子は口籠った。可愛いと思って欲しい相手が不快ならば、止めるべきだろう。しかし、協力してくれた亜未の笑顔を思うと、申し訳ないと思った。
「震えてたくせに。怖かったんだろ。これに懲りたら、元の貞子で居ろよ。せめて、好きなやつが出来たらそいつの前だけにしとけって」
それを聞くなり、咲登子は足をぴたりと止める。じわじわと嫌な気持ちが胸に広がっていく。まるで、その言い方は咲登子に思われていないことを前提としたものではないか。
──やっぱり、私は腐れ縁の先輩でしかないの……?
「なあ、聞いてるのか」
「──ねえ、どうしてそこまで心配してくれるの?き、桐谷にとって私って、何……?」
優しさに理由を求めるなんて、面倒な女だと思われても良い。ただ、このモヤモヤを止めたかった。
頭上には消え掛かった街灯がチカチカと点滅しており、周りには蛾が泳いでいる。遠くから雷鳴が聞こえ、雨の匂いが鼻腔を掠めた。
暫く沈黙が流れる。咲登子は恐る恐ると伏せた顔を上げ、桐谷の瞳を見詰めた。そこには僅かな困惑の色が浮かんでいる。
「……それ、今言わなきゃダメ?」
──あ、これ。駄目なやつだ。
ひゅんと心が竦む心地になる。横田に迫られた時よりもずっと胸が痛かった。
この関係を崩さないためにも、言い訳をしなければと頭をフル稼働させるが、全く良い言葉が浮かばない。
桐谷の手の温もりが急につらいものに思えて、そっと解いた。
「…………変なこと聞いちゃった。あの、ごめん、ごめんね……。えっと、私、さき……に、かえるね、」
最後の方は言葉になっていなかったかも知れない。ぽたり、と雨粒が頬に落ちた。
「あ、おい……!」
離れた手を掴もうとするが、咲登子の顔は切なげに歪んでいる。初めて見たそれに、桐谷は怯んだ。
金縛りにあったかのように、足が竦んで動けない。そうしている間に、咲登子の姿はみるみる遠ざかっていった。
やがて、降り始めた雨は本降りになり、身体を冷やしていく。肌着が濡れ始め、気持ち悪いという感覚を得てから、ようやく桐谷は手を動かした。
「…………違う、ちがうんだよ」
俯きながらズボンのポケットへと手を入れる。そこからは動物園のチケットが二枚顔を出した。それは生まれて初めて、自分が稼いだ金で買ったものだった。
「…………何で分からないんだよ。あまりにお前が綺麗になっていくと、俺みたいな歳下のガキなんて相手にしてくれなくなるだろ……」
俺を置いて行くなよ、と呟く。それは雨音に掻き消されていった。
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