さよなら、浅き春

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 やがて藪を抜けると、そこには人影が見えた。  半年ぶりのその姿に、息を整えつつ、拳を握る。 「き、桐谷…………!」  そう呼びかけると、桐谷は振り返った。その表情は何処か固く、何処か優しい。 「おう。(おせ)えぞ」 「ご、ごめん」 「まあ、直前に場所を変えた俺が悪いな」  それだけ言うと、桐谷は黙り込んだ。咲登子も釣られて閉口する。  藪の中だからか、木々のそよぐ音と小鳥の(さえず)りだけが辺りに響いた。  やがて無言に耐えきれなくなったように口を開く。 「「あのさ」」  だがそれは双方とも同じだったらしく、声が重なった。顔を上げれば、視線が絡み合う。  思わず同時に顔を逸らした。 「き、桐谷からどうぞ」 「お、おう。貞子さ、どこの大学行くんだ?」 「京都だよ」  そう言えば、桐谷は何かを考え込むように眉を寄せた。ここまで真剣な表情は初めて見たと、咲登子は鼓動を高鳴らせる。 「遠いな…………。……なあ、また連絡していいか?」 「良いけど……」 「俺もそっち方面の大学に行きたいからさ。色々教えてもらいてーし」  その言葉に、咲登子は目を丸くした。それと同時に、また桐谷と近い場所に居られるかもしれないことに胸が踊る。 「へ、へえ〜。意外ともう進路考えているんだね。感心だ」  その気持ちを隠すように、感嘆の声を漏らしながら頷いた。だが桐谷を見遣れば、何故かバツが悪そうな表情をしている。  気のせいかも知れないが、耳が赤い。 「…………今決めたんだよ」 「い、今!?」  咲登子は思わず素っ頓狂な声を上げた。  桐谷は拗ねたような表情を浮かべると、咲登子と視線を合わせ、人差し指で額をぺちんと弾く。 「…………お前ってそういうところあるよな。そもそも、俺がここに来たのも偶然と思っているのか?」 「そ、そうじゃないの?」  そう返せば、桐谷は大袈裟に溜め息を吐いた。 「……ちげーよ。ここまで鈍感だと腹が立つな。……お前が、三年前俺と離れるのは寂しいと言ったんだろ。……俺、すっっげえ勉強したんだぜ」  それを聞くなり、咲登子は俯く。顔中に熱が集まる甘い感覚に動揺が止まらない。泣きたいのか、嬉しいのか、訳が分からない感情でいっぱいになった。 「だ、だって、あの子はッ……?三年前、桐谷に抱き着いていた……髪がふわふわの子……」 「あれは再従姉妹(はとこ)だ。親の都合で一緒に住んでいた期間があったから仲良いだけ。ちなみに幼馴染の彼氏持ち」  それを聞いた咲登子は、へなへなと身体中の力が抜けてしまう。今まで何に囚われて、何に嫉妬していたのだろうか。 「……なに、お前。もしかして妬いてたの?」  桐谷はその前へ屈むと、面白そうにフッと笑った。 「…………そうだよ、妬いてたよ!」  バクバクと心臓が煩い。今なら何でも言える気になった。長年囚われてきたものから解放された安堵からか、雪解けのような雫がはらはらと伝う。 「だって、わ、私ッ、桐谷……のことが……、中三の頃から……す、」  好き、と言おうとした唇を桐谷の指が押さえた。  そして不意に顔が寄り、耳元に口が寄せられた。ふわりと制汗剤の爽やかな香りに、頭がくらくらとする。 「…………待って、これだけ聞かせて」 「な、何?」 「その可愛い格好、俺のため?」  囁くように言われれば、咲登子は倒れそうなくらいに混乱した。そう、半年前に「好きなやつの前だけにしとけ」と言われたことを覚えていた咲登子は、今日だけ精一杯お洒落したのである。  もはや声は出ない。その代わりに一度だけ頷く。 「嬉しい。だけど、その続きを言うのはまだ待ってくれ」 「え…………」  残念そうな声を上げた咲登子の顔を見て、桐谷は愛しげに笑った。こんな笑い方も出来るのかと咲登子は見蕩れる。  桐谷は咲登子の髪を一束掬い、くるくると弄ぶ。 「……俺、折角お前と過ごすために此処に来たのに。お前が俺を避けたりするから……。受験生だから仕方ないと思っていたけどよ」 「ご、ごめん…………」  そこに関しては何も言えずに、咲登子は眉を下げた。 「罰として、あと二年。俺が行くまで待っててくれるよな。……咲登子に相応しい男になるからさ」 「ま……、待つ!待ちます!」 「ん、よろしい」  桐谷はそう言うと、そっと咲登子の右手を持ち上げる。  そして片膝をつき、誓うように薬指へ唇を落とした。  木漏れ日が優しくふたりを包む───  もうあの日(浅き春)を怖がらなくて良い。  きっと次の春は素敵なものだから。
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