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浅き春の記憶
穏やかに流れる雲の隙間からは、光が立つように陽光が差し込んでいた。陽射しこそ暖かいが、頬を撫でる風はまだひやりとする。
けれども梅の花は赤く色付いた花弁を主張し始め、桜と思わしき樹木には小ぶりの蕾が僅かに目立つようになってきた。まさに季節が変わろうとしている。
腰まで伸びた烏の濡れ羽色の髪を風に揺らし、校庭の隅で佇む少女──須藤咲登子の姿があった。何処か緊張したような面持ちで、地面を見詰めている。その手には卒業証書が入った黒筒、胸元には卒業生の証である花のバッジがあった。
そこへ、体操服姿の同じ背丈くらいの少年が駆けてくる。昨年小学校を卒業したばかりということもあり、笑顔にはまだあどけなさが残っていた。
『ごめん、待たせたか?』
『べ、別に……。さっき来たばかりだから』
『そっか。あ、卒業おめでとさん。もう貞子も高校生か』
その揶揄うような言葉にも、いつもならば眉を寄せて唇を尖らせる咲登子だが、今日に限ってはそれどころじゃない。
『貞子じゃないっての。……そうそう、中学なんてあっという間だったよ』
『まあ、小学校よりは短いもんなぁ。お前、高校は何処行くんだ?』
『夜名原高だよ。ほら、隣町にある私立のトコ』
そのように返せば、少年はゲッと眉を寄せた。
『頭良いとこじゃん。校則キビシーって先輩から聞いたぜ』
大袈裟なまでの嫌そうな表情が面白かったのか、咲登子は緊張が溶けたように、くすりと笑う。
たわいのない会話をしている間にも、続々と部活動を行う生徒が校庭へ集まりだした。
『で、話しってなんだよ?』
『あ…………ええと、その、ね、』
咲登子は白い頬をほんのりと朱に染め、不安に瞳を潤ませる。きゅうと唇を真一文字に引き結ぶが、微かに震えていた。
『わ、わたし…………ッ、』
『──琥太〜〜ッ!』
そこへ甲高い声と共に、愛らしい少女がやってくる。天然パーマのふわふわの髪に、くりんとした目元、ニキビとは無縁そうな白い肌。まさに愛されるために産まれてきたと言えるような少女がそこに居た。
慣れた動作で少年の腕へ絡み付くと、挑戦的な目で咲登子を見上げる。まるで、この男は自分のモノだと言わんばかりのそれに、咲登子は出かかった言葉を飲み込んだ。
『何だよ、抱き着くんじゃねえって。……で、何だっけ、貞子』
『いや、何やかんやであんたとつるんだ時間が濃かったからさ、寂しいなって思っただけ!』
咲登子は口早に捲し立てると、傷付いた表情を見られまいとして顔を背ける。そして何とか笑顔を貼り付けると、後ろで手を組んだままクルリと振り向いた。
『……今までありがとね、桐谷。部活頑張って』
バイバイと小さく右手を振り、背を向けて歩いていく。
すっかり校庭から離れた辺りで、ぴたりと立ち止まった。目の奥が熱くなり、空を仰ぐと眼前には大きな桜の木の枝が広がっている。
風に晒されたせいか、頬が冷たかった。
『…………好きだったな……』
淡い思いを浅き春へ置き去りにするように、小さな声で呟いた──
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