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神代植物公園を正門側からではなく、南側の深大寺門の方へと抜けると、すぐに門前通りに出る。そこまでの散策路を、黙り込んでしまった雄吾の隣、一メートルほど先を歩きながら、琴海は「実は」とため息のように語り始めた。
「娘が、日奈子がね、気づいたみたいなの」
ずっと子どもだと思っていた娘がいつの間にかしっかりと女になっていた。それを感じたのはお風呂上がりにじっと自分の体を洗面所の鏡で見ている姿を目撃した時だ。既に琴海より五センチほど大きい娘は急に膨らんできた自分の胸に戸惑いを覚えていた。琴海にも覚えがあるが、どうしてもこの年代は成長に大きなばらつきがあり、早い子は既に経験済みだったり、発育の良い子は異性の視線に晒されたりと、何かと悩み事が尽きない。
だから最初は日奈子もそれで悩んでいるのだと思っていた。
けれど小学校までは外を走り回っているのが好きな、夫によく似た体育会系とも思える活動的な娘が中学に入って選んだのは新聞部で、最初は友だちにでも誘われて仕方なくという感じだったのかなと考えていたけれど、この夏頃からやたらと琴海に過去のことをあれこれと尋ねるようになった。
その質問の中でももう隠しておけないなと琴海が感じたのはこれだ。
――お母さんは今年も深大寺のそばまつりに行くの?
子どもの頃なら何気ない質問だと思って「そうね」と答えていただろう。けれど日奈子の、その母親を試すような、目や鼻、口の動きといった微妙な変化までも読み取ろうという視線に「今年はどうしようかな」と誤魔化してしまった。
「まだ確信はない。けれど、シロとは思っていないといったところだね。娘さんはその他に何か?」
「私は小さい頃に両親を亡くしていて、親代わりは疎遠な親戚しかいない。ずっとそう説明してきたんだけど、しきりにどんな親だったのかと尋ねるのよ」
「君の反応を見ているのかも知れないね。思春期というのは難しいよ」
自分も一度は通ったあの時期特有の不安定さなら、まだいい。少し歩調を早めた雄吾は琴海の前に出て「それでも、そうだね」と心を決めたように頷き、こう告げた。
「この関係を終わりにしよう」
関係――という言葉は、酷く都合の良い言葉だと琴海には思える。それが良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そんな感情のことは全く考えずに口にすることが可能だからだ。
それでも琴海と雄吾の“関係”について「この関係」という言葉以上に相応しいものは琴海にも見つけられなかった。
深大寺門口を出て、石畳を歩いていく。茶屋や蕎麦屋が軒を連ね、幟には『深大寺そばまつり』という文字が泳いでいる。
通い始めて十年、馴染みの店も出来て、年に一日だけ、水野琴海から吉永琴海に戻ることが出来た。けれどそれも今日で終わる。この関係はいつか終わりにしなければいけなかった関係だからだ。
蕎麦屋五百里はまだ若い夫婦二人でやっている。流石に今日は店内も、それに店の外のテーブル席にも人がいっぱいで、学生らしいアルバイトが忙しなく行き来をしていたけれど、十分ほど待ってから琴海たちは席に案内された。すっかり顔は覚えてしまわれたようで「今年も宜しくお願いします」と、髪の短い店主から笑顔で挨拶されてしまった。まだ三十そこそこだろう。琴海はカウンター席に座り、足元の籠にバッグを置きながら「おかーさん」とすぐに泣きついてきた頃の日奈子を思い出した。
「蕎麦なら盛りだろう」
最初にそう教えてくれたのは雄吾だった。そもそも琴海は蕎麦が嫌いで、かけそばともりそばの違いもよく知らなかった。けれど彼に付き合って食べているうちにうどんやラーメン、パスタとは異なり、蕎麦特有の風味、味わい、それに粋というものを僅かばかり感じられるようになってきた。
それでもこの肌寒い時期に敢えて盛りそばを食べようという彼の気持ちは、未だに理解が及ばないでいる。
「今年も盛り二つ、おまたせしました」
竹細工の蒸籠に盛られた淡い小豆色の蕎麦と、その隣で湯気を昇らせる濃い目の出汁はいつもと変わらずに良い香りを漂わせる。右隣りに座っている彼は迷わず蕎麦汁にネギと生姜、それに蕎麦の上に載せられている刻み海苔までを入れてしまう。琴海の方は申し訳程度にネギだけ入れた。その間にも彼は箸で最初の一口を持ち上げると、たっぷり汁に浸してから、それを口に運んだ。次の瞬間にはそれは口の中から消え「旨い」という一言へと変わっていた。
相変わらず――そう感じて笑みを作りながら、琴海も彼に倣った。玄人ならあまり汁に浸けないものだ。そんなことを云う人もいるが、琴海なんかはよくお出汁が絡んでいる方が美味しく感じた。
雄吾にとって蕎麦があの頃一番のご馳走だったことを、琴海は知っている。だから十年前、この深大寺のそばまつりで再会したのも偶然ではない。彼には黙っていたけれど、いつも心のどこかで探していたから、今の二人の関係があった。
すっかり蕎麦を食べ終え、彼は蕎麦湯までもお腹に収めた頃、琴海たちの後ろに見慣れたカーキ色のパーカーを着た少女が立っていた。
「お母さん、わたし、信じたくなかったよ」
琴海の娘、日奈子だ。
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