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 娘が本当はずっと二人の密会のことを知っていた――もしそれが事実なら、琴海はどんな酷いことを言われても受け入れるしかない。心のどこかで安心していたからこそ、この年にたった一日の、自分を偽らなくていい時間が楽しめたのだ。けれどこれが娘をずっと傷つけていたのなら、母親として最低のことをしてきたことになる。それは自分の、亡くなってしまった母親と形は違えど同じ行為だ。 「母さん。何か言ってよ。嘘だって言って」  信じたくない。その気持ちは痛いほど分かった。だからこそ、本当のことを伝える必要があった。 「日奈子、雄吾さんは何もしていない。それは私が見ていたから本当なのよ。嘘はついていない。ただね、私も雄吾さんも黙って見ていたのよ。連絡をしなかったの。長屋に火が広まっていくのを、じっと二人で見つめていたの。今でも思い出すわ。真っ赤な炎が勢い良く窓ガラスを破り、大きな手となって建物を掴んで、あっという間に染め上げてしまったあの光景を」  嫌いだった母親。死んで欲しいとすら思った家族。それなのにいざ炎が全てを焼いてしまうと、二人に残されたのは何をしても消えない罪悪感だった。琴海は遠縁の親戚に、雄吾は施設に預けられ、十年前にこのそばまつりで再会するまで一切顔を合わせていない。その時に初めてどちらもまだ、あの罪悪感という炎がくすぶっているのを自覚したのだ。 「じゃあ……じゃあ何で母さんたちは付き合ってるのよ。好きだから? 家族よりも、大切だから?」  日奈子は夫譲りの逞しい眉を曲げ、琴海譲りだという大きな黒い瞳を潤ませながら、彼女に聞いた。 「大切な人よ。でもね、恋愛じゃないのよ、この関係は。言葉にしようとするとするりと手から逃げてしまう。でも、お互いにとってこのたった一日の邂逅が普段の生活の支えになっていたの。そういう男女でもない、友情でもない、特別な関係だったの」 「特別なら、それこそ男女の関係だったんじゃないの?」 「違うよ。誓って言う。彼女はこの十年の間、一切僕と手を繋いでいない。当然口づけもしていない。そういう話すら、話題には上らなかった」 「じゃあ一体、二人で何をしてたって言うの?」  まだ十五歳の娘に理解しろというのは酷だったろう。それでも琴海は淡々とそれを告げた。 「蕎麦をね、食べたの。二人で、盛りそばを、食べていた。それだけよ」    あの後、娘は酷く声を上げ、赤ん坊のように泣いた。それを慰めているうちに雄吾は「さよなら」も口にせず、そっと身を引くようにして雑踏に紛れてしまった。  何かの終わりというのは、こんな風によく分からないまま、曖昧に時間が過ぎて、いつかそれが終わったと感じる瞬間を経験する。そういうものなのだろう。  琴海はスマートフォンから彼のLINEを削除しようとして、メッセージが届いているのを目に留めた。そこにはこう、書かれてあった。    ――君はもう、鎮火していたんだね。    火事の報があった時、消防車や消防士は水や消火剤によってその火を消そうとする。これがある程度消火され、延焼の恐れがないと判断された状態を鎮圧と言い、そこから更に消火活動そのものが不要となり、消防士も必要なくなった段階でやっと鎮火と呼ぶ。  もう火の粉すら、恐れなくていいのだろうか。 「ねえ、母さん」 「何?」 「今度、一緒に蕎麦を食べに行ってもいい?」 「いいわよ。けど、蕎麦にはちょっとうるさいの」 「でもうち、蕎麦って食卓に出なくない?」 「じゃあ今夜はお蕎麦にしょうかしら」 「お昼も蕎麦だったのに?」  駅のホームに電車が滑り込んでくる。いつもここで「また来年」と彼に言われて別れていたのに、今日は見送る誰かはいなくて、代わりに琴海の隣に日奈子がいた。 「ありがとう」  シートに座り、そう言って娘の肩に頭を載せると、 「そういうの、照れくさい」  娘は迷惑そうな顔をしたけれど「今日だけだよ」と、そのままにしておいてくれた。(了)
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