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「あ」
と、哉太が言った。その発音に合わせて、私の身体はびくりと反応する。
「どうしたの?」
私が首を傾げると、まだ下着姿の彼は、参った、とでも言うように頬をかきながら、「マーガリン、塗り忘れてた」と手元のパンをこちらに傾ける。
なんだ、そんなことか――と、私は少し吹き出しながら、少しだけそのことを意外に感じた。
彼はなんでも、几帳面な性格だ。ぼさっとしているけれど、自分の行動について確固たる自信を持っているし、きちんと考えて動いている。マーガリンだって、塗り忘れたことはなかったはずだ。彼はいつも、マーガリンを塗ったそのうえから、イチゴジャムを重ね塗りする。
彼の傾けたそのパンには、けれどイチゴジャムしか塗られていなかった。
「イチゴジャムのうえからマーガリンを塗ればいい」
と、私は提案する。すると彼は、
「君はドレスのうえからブラジャーを付けるの?」
と、真顔で返してくる――女子である私にその反論は不適切じゃないか、とムッとしながら、こんな言葉を返してくる彼は、やっぱり少しおかしいなと考える。
「今日も学校?」
と、哉太は私に、話のついでのように質問する。
「うん、平日だからね」
と、私は答える――これに関しては、どちらがおかしいのだろう。平日であることを失念している彼なのか、それとも、こんな日に学校に行く私なのか。
判断はできなかった。
第三者が必要だ。
「でも多分、授業もないだろうし……三笠と佐藤に挨拶できたら、それでいいかなって感じ。哉太は?」
「僕はそうだな、大学にパソコンを置いてきたから、それを取りに行くついでに、なにか夕飯でも買ってこようか。なにがいい?」
「焼きそば」
「りょーかい」
私は空っぽになった平皿を食洗器の中に戻して、それからブレザーのリボンの位置を直した。玄関近くに置いてあるカバンを手にとると、駆け足になって走り出す。
マンションの五階からは、街のほとんど全部が見渡せた。
一週間前まではあんなに騒いでいたというのに、今ではこんなに静かなこの街は、どうだろう、正常に戻ったのか、それとも狂いすぎて、一周回ってしまったのか、それも判断できなかった。
第三者であるはずなのに。
いや――これに関しては、当事者か。
ボブカットの髪が跳ねるのを視界の端に捉えながら、エレベーターもないマンションを、一段飛ばしで駆け下りる。マンションに住み着いている野良猫のナジムが、ちょうど大きく欠伸をしているところだった。その大きな口にちょっかいを出したくなるのをこらえて、自転車のロックを外す。
学校までは、自転車で十分くらいだ。
ブロック塀とすれ違いながら、誰もいない通りを進んでいく。
喉が渇いたので、途中の自販機でコーラを買った。がこん、という音と一緒に、傍の曲がり角から、まだリードのついている犬が驚いて飛び出した。焦ったようにハ、ハ、ハ、と呼吸を荒く走り去る。ゴールデンレトリーバーだった。
さて。
私は自転車に乗り直して、コーラを片手に再び漕ぎ出した。炭酸が喉を過ぎるたびに、ぱちぱちとした感覚が口内に広がる。炭酸はやっぱり苦手だった。
校門を過ぎると、やはり駐輪場には、ほとんど自転車は止まっていなかった。いや、止まっているほうがおかしいのかもしれないのだけれど。それでも、そのなかに三笠と佐藤の自転車を見つけたので、私は上機嫌だった。
下駄箱で靴を履き替えて、おそらくふたりのいるであろう、三階の三年二組の教室を目指す。どの教室にも人影はなく、耳を澄ませても話し声は聴こえない。
そのせいだろうか。
見慣れているはずのこの景色がとても朧気な、蜃気楼のような存在に見えた。
危うげというか……少し押せばすぐに倒れてしまうような。
ハリボテの幻想を、どうにか現実のものだと、強引に信じ込もうとしているというか。
そういう、不思議な感覚に包まれていた。
今日はそういう日なのかもしれない。
「お」
「あれ、日向じゃん、おはよ」
と、廊下の端から私に手を振ったのは、三笠と佐藤だった。私も手を振り返しながら、彼女たちのところまで走る。
「やっぱりふたりも来てたか」
と私が言うと、ふたりはニヤリと笑って、
「あたぼうよ」
と声を揃えた。
ふたりとは、中学からの仲だった。背の高くて運動ができるほうが三笠で、背の低くてオタクっぽいほうが佐藤だ。
「やることないもんね」と佐藤がつぶやく。
「家のなかにいても仕方ないしな」と三笠もうなずく。
そりゃそうか、と私も適当に相槌を打って、「じゃあ何しよっか」と訊いてみた。
ふたりの目線が、一度に私のほうを見る。
「決まってるでしょ」
と言葉が揃った。
「映画鑑賞」
私と三笠と佐藤は、映画研究会という部活に所属している。
別棟、美術室の隣の空き教室を根城に、数少ない部費でプロジェクターを購入し、スクリーンは倉庫のものを借りて、週に一・二度、映画鑑賞をしていた。
「何が見たい?」
と、三笠が尋ねる。
「そうだな」と佐藤がしばらく考えて、「洋画なら猿の惑星、邦画ならフィッシュストーリーが見たい」
「どっちも見たことあるし、違うのがいいなぁ」
三笠は手元のルーズリーフに目線を走らせる。部室にある映画のリストだった。個人収集のものから、先輩からのお下がりまである。
「ダンケルクなんてどう?」
と、三笠が顔をあげた。
「アメリカンスナイパーとか、プライベートライアンでもいいけど」
「もれなく戦争ものじゃないか」
私は小さく吹き出しながら、さて何を見ようか、と考える。「まだ見たことがないものがいいよね」と提案してみる。
「見たことがないものか……」と三笠が呟きながら歩く。
久しぶりだ。
こうやって、三人で廊下を、映画の話をしながら並んで歩く。
本当に、久しぶりだ。
校舎。やけに長い廊下を歩きながら、制服姿の私たち。
たぶん、もう二度とないだろう。
こういうことは、もう二度とないんだろう。
永久に失われてしまうのだ。
「日向」
と私の名前を呼ぶ声は聴こえる。
「ショーン・オブ・ザ・デッドってことになったけど、どう?」
私はうなずく。
知らない映画だ。
部室の扉を開く。
DVDを探して、レコーダーの口に入れる。
「これ見終わったらどうする?」
と、三笠が誰というわけでもなく聞いた。
「そうだな」と佐藤が右手で顎をさする。「やっぱり家に帰るかな」うんうんとうなずく。
「まあ、そうだよねえ」と私もその意見に同意する。私もやはり、映画を見終われば家に帰ろうとしていたのだ。
「三笠はどうするの?」
三笠は三つ編みを揺らしながら振り返る。
「私は帰らないかな。あんま仲良くないし。」
苦笑い。三笠は本当に綺麗な苦笑いをする。
「じゃあ何するの?」
佐藤がレコーダーのリモコンをいじりながら聞く。
「ラジオ」
と、三笠はポケットから、手のひらサイズの携帯ラジオを取り出した。「好きな局が最終回スペシャルやるらしいからさ」
「へえ、すごいな」
と、佐藤と私の声が揃う。
意識的にか、無意識的にか、ふたりがおそらく避けている言葉が不意に口を突きそうになるけれど、それを遮るみたいにして、映画の上映が始まった。
映画鑑賞中は沈黙を貫く。
映画に対して真剣な姿勢を保つ――いつの誰が決めたのかは知らないけれど、かなり昔からあるこの部の決まりごとだった。
ゾンビのパンデミック。
武器になるバットマンのサントラ盤。
クイーンのジュークボックス。
映画が終わるころ、世界は午後五時だった。
「いやあ、清々しいほどのコメディ映画だったね」
と佐藤が背を伸ばしながら言う。
「キャラクターが良かったね」と私も同意する。私もふたりも、そこまで映画について詳しいわけではないから、これくらいの感想がせいぜいだった。いいものを見たという感覚はあるけれど、それを言語化できないのだ。女子高校生ならこれくらいが限界、ということかもしれない。
「さて、帰りますか」
と佐藤が言って、荷物をまとめようとする――それを、三笠が「待った」と制止した。
「見て欲しいものがあるんだ」
とUSBメモリをレコーダーに突き刺す。
「なにそれ」
「映画だよ」
「だからなんの?」
三笠の顔はいつの間にか真っ赤になっている。
「映画。」
私と佐藤は、部室の奥、カーテンに遮られた夕日に曖昧に照らされた彼女の背中、そして陰りを見つめながら、続く言葉を待ちわびる。
三笠は言葉を言う。
「私たちの映画」
彼女の背後で、テレビ画面が青く点灯する。
二、三秒の静寂を挟んで、大きくタイトルバックに「アス」と出る。
「ははん」佐藤が笑いながら座る。「『私たち』と『明日』をかけてるな?」
「悪い?」
「三笠が撮ったなら最高」
私も隣に座る。
4:3のお下がりのブラウン管に、ザラザラとした映像が現れる。
「おお」と佐藤が思わず声を漏らす。
映っているのは私たちだ。
校舎のなかを、私と佐藤が歩いている。会話の内容は映画の話だ。最新作の感想、実写化への悪口、次はいつまたDVDショップに行こうか、みたいな下らない言葉が続くその背中の後ろで、三笠はパズルのピースをスカートのポケットから取り出して見せる。
シーンは移り変わって桜並木。修理に出したレコーダーを抱える私と、2Lコーラとポテチを運ぶ佐藤の隣の三笠の視点だ。通学路の傍の河川が見えている。
「重いー!」と叫ぶ私と、隠れてポテチを盗み食いする佐藤。
その後ろを歩いているカメラマンの三笠が急に後ろに向かって走り出す。
「どうしたー?」と私と佐藤が聞くのを後ろに、三笠は地面に落ちていたパズルのピースを拾う。
また次のシーン。移動教室から扇風機を盗んできた佐藤の笑顔とヤバいヤバいと焦る私の横顔。撮影場所は部室の中で、薄暗いけれどよく撮れている。と、唐突に部室の扉が開いて、生徒指導の山田がぬうっと顔を出す。
思い出した。
このあと、私はなぜか巻き込まれて、佐藤と共に説教を受けるのだ。
「こらぁっ! 佐藤! 三笠!」
記憶通りの佐藤の声が部室に響いて、「なんでー!」と叫びながら引きずりだされる私と佐藤。ふたりが消えて三笠だけの部室で、彼女は引き出しのなかからもうひとつのピースを見つける。
この映画は正直、映画と言えるようなものではなかった。
ストーリーなんてものもあったものではない。
私たち三人のやり取りの裏で、三笠がパズルのピースを集めるだけなのだ。
時間だって、おそらく二十分もなかっただろう。
私たちじゃないと、多分楽しめなかっただろう。
けれど、今見ているのは私たちなのだ。
だからそれでいい。
そして最後のピースが揃う。
走る三笠がたどり着いたのはこの学校の屋上だ。そこに、今まで集めてきたパズルのピースがある。最後のパズルのピースを当てはめると、完成したのは私たちの小学生のころの集合写真だった。
途端、輝き始める集合写真。
くるくると回りながら、青空に吸い込まれていく。
その様子を三笠は、まぶしそうに仰いでいる。
そして、その集合写真が衛星にぶつかり、大爆発して映画は終わった。
「…………」
「…………」
「どうよ」と、振り返る三笠のメガネが光る。
「爆発オチかよ」と吹き出す佐藤が隣にいる。
それにつられて笑い出す三笠も、隣にいる。
私も、ふたりにつられてしまう。三人の笑い声で部室はいっぱいだ。
笑いながら、私は心の端っこで考えた。
守られてしまった。
「本当はね、卒業式の日に見ようと思ってたんだけどね。まあ実質卒業みたいなもんだし」
と、身支度を終えて下駄箱へと戻る道のりで三笠は呟く。
「傑作だったよ」
と佐藤はまだ笑っている。
ふたりの、まだ少女の華奢な背中がゆっくりと進んでいく。
夕日が陰っている。
さび付いたガードレール。置き去りの車。猫の欠伸。
そういう何もかもが、夕日を前に何もかもを遅延させている。
「私、こっちだ」
と三笠が右を指さす。
「ん、私はこっち」
と、佐藤は左を指さした。ここの三叉路ではいつもそうだ。最後までずっとこうなのだ。
「じゃあ、私はまっすぐ。」
「うん。じゃあ」
三笠が手をあげる。
「また来世」
佐藤もそれにうなずく。「また来世」
私が最後になる。ふたりの視線が私を見る。
「また来世」
三角形が拡大していくみたいにそのまま、三人で別々の方向へと歩き出した。何度か振り返りたい衝動にかられながらも、振り返ってそのまま、ふたりのところに走り出したい衝動にかられながらも、私はそのまま、まっすぐに進んでいく。
哉太が待っている。
マンションの五階から眺める景色は、この静かな町を包含している。
「あ」
と私が見つけたのは哉太と、その手元の煙草だった。
「やめたんじゃなかったっけ?」
私が訊くと、
「久しぶりに吸いたくなったんだ」
と彼は口元の煙草をぷは、と離す。彼と煙草と夕日は似合う。
「どうだった? 大学は」
と私は訊きながら、彼の腕の中という特等席に滑り込む。シートベルトみたいな彼の手が私を包む。
「教授が自殺してたよ」
哉太はなんでもない風にそういう。
「そっか」
と私も、なんでもない風に返す。「それだけ?」
「それだけ。あとは、焼きそばを手にいれたくらいかな。お腹空いてる?」
「んーん。ぜんぜん。」
「だよねえ」
哉太はにへら、と笑う。柔らかそうな頬をつねってみたくなる。
もうすぐ彼も死んでしまうだなんて、どうしても信じられなかった。
隕石。
そういう偶然は、宇宙では以外とよくあるものらしい。地球に隕石がぶつかって地球が滅びるというニュースが流れたのは、一か月も前の話だった。そこから一週間くらい、世界は大パニックになって、そのあと一週間、つまり今日までは、打って変わって静寂だった。
みんな死ぬ。
今日でみんな、死ぬ。
有名人も一般人も聖人も凡人も善人も悪人も、賢者も愚者も先生も同級生も警察も政治家もアイドルも、
三笠も、
佐藤も、
哉太も、
私も、死ぬ。
今日ここで、きっぱりと。
死ぬ。
死んでしまう。
「なんかさあ」
と、私は哉太の横顔を見つめる。
「なに?」と哉太の綺麗な目がふたつとも、私のほうを見る。
「生まれた間が悪かったね、私たち」
「そうだね」
「もうちょっと早く生まれてたら、子供産んだり、孫の顔を見たくなったり、そういうことができたのかもしれないね」
「そうだね」
「ねえ、哉太」
私は小さく伸びをした。
「もうちょっと、生きていたかったね」
「そうだね」
と、哉太の声はやっぱり、最期まで、優しい。
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