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二人きりの部屋を満たす静けさを破ったのは、彼女の深い溜め息だった。
「これはもう、潔くあきらめるしかないでしょう」
「いいや、まだだ」
逸る気持ちを抑えこみ、彼は語気を強める。
「絶対に状況をひっくり返してみせる」
「日付が変わるまであと二十分もないのに、いったいどうするって言うの」
責めるような口調とは裏腹に、彼女も心の底では土壇場での大逆転劇への期待を捨てきれずにいることを彼は承知済みだ。
ーーだから、なんとかして応えないといけないんだがな。
彼女の手首に光る腕時計に目をやりながら、彼は必死で考えを巡らせる。
時効までわずか二十分。時計の針が午前零時を指す前にこの謎が解けなければ、永遠に迷宮入りしてしまう。
ーー思い出せ。見逃しているだけで、きっとどこかに解決の糸口があるはず。
「無駄だってば」
何も言わない彼に、彼女は上擦った声で言い募る。
「これ以上粘っても不毛だよ。あんなに長い時間かけても駄目だったのに、今さらわかるわけないでしょ」
「それでいいのかよ!」
売り言葉に買い言葉。感情任せに言い返した途端、彼は後悔に襲われた。
「何、その言い方」
案の定、彼女は肩を震わせて立ち尽くしている。
「わたしだって思ってもなかった。こんなことを自分から言い出す日が来るなんて」
彼女は背を向けた。
直前、涙をこらえるかのように唇を噛む様子が目に飛び込み、彼は言葉を失う。
すまなかった、俺が悪かった。
謝りたいのにどう声をかけていいかわからず押し黙ると、部屋は再び静寂に包まれた。
ようやく彼女が弱々しく口を開いた。
「世の中には、どうにもならないことだってあるでしょう」
その声にはどうしようもなく失望が滲んでいる。
「所詮、わたし達はその程度だったってこと。それだけ」
うなだれた彼女が部屋の扉に向かって歩き出すと、彼の頭のなかで警鐘がけたたましく鳴り始める。
このままじゃいけない、でも、どうすれば。
ーーこうなったら、最後の手段だ。
「初めて一緒にスーパーに行った記念日!」
彼女の肩が揺れ、歩みが止まるのを見て、彼は言葉を重ねる。
「最初はどこかランチに出かけるつもりが、鍋の具の話で盛り上がって予定変更して、つくねを探してスーパーを三軒ハシゴした。あの日から六年経った日が今日なんだろ」
ゆっくり振り返った彼女の唇が美しい弧を描く。
「へえ、あの時のこと覚えてたんだ。意外」
「せ、正解……?」
恐る恐る聞く彼に、彼女は笑顔で答える。
「ううん、大はずれ。ギブアップ?」
「待て待て、今のは冗談だ。いま思い出すから」
出会ったのは八月だし、付き合い始めたのは十月。ファーストキスも同じく。初めての泊まりがけの旅行は春だったから違う。
同棲記念日、結婚記念日、もちろんお互いの誕生日でもない。
いよいよ頭を抱えこむ彼に、彼女は明るく声をかけた。
「はい、時間切れ。正解はこれです」
彼女は腕を掲げる。
「わたしが毎日着けてるこの腕時計をプレゼントしてくれた特別な日が、ちょうど今日から七年前」
だから時間をうるさく気にしてみせたのに、と朗らかに笑う彼女に、彼は弱々しく苦笑いを返した。
「記念日おめでとう、奥さん」
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