1%の奇跡

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
派遣元会社の入っているビルに到着したときは13時を過ぎていた。おかしいとは思った。違和感は感じていた。 派遣元会社から年末調整の案内メールを受信したのは、11月上旬のことだった。ちょうど年末調整の件が気になり始めていた頃で、正におあつらえ向きの連絡であった。 全てインターネットで完結させてほしい、というようなことが記されていた。生命保険料控除証明書もインターネットを通じて提出してほしい、ということだったので、遂に原本提出も不要な時代になったのか、と感心したばかりであった。そういえば以前父に3月の確定申告の手伝いをさせられたことがあったが、そのときも同様に原本提出など不要と父から聞かされていた。スマホやパソコンで完結出来る、便利な世の中になったものだ。そう思いこんでいた。 11月末が締切日であったにも関わらず、失念を恐れた私は、契約している3社の保険会社から控除証明書を受け取るや否や、早速年末調整の手続きをした。 師走に入りすぐの金曜日、派遣元会社から1通のメールが飛び込んできた。保険会社の控除証明書の添付資料を確認したが、保険料の支払はゼロということで良いか、という内容であった。確かに国民年金や国民健康保険を支払った場合、それらも年末調整の対象になるようなことが記されていた。ただ自治体に問い合わせる煩わしさがあってか、それに関する申告は放棄していた為、そのメール内容に関する同意の旨の通知を派遣元会社にした。が、その後正しく処理されているのか気になり、確認のメールを再度送信する。 すると「PDFの資料のみで原本が未着である為、生命保険料の年末調整は認められず、ご自身にて確定申告を行っていただく他ない。」 という連絡が届く。 こうして2022年最後の月の最初の月曜日は最悪な始まり方をすることになる。皆が仕事開始であろう週明けの月曜日に公休を取得したことに優越感を感じている場合ではなくなった。 私の週明けの最初の仕事は、派遣元会社に電話連絡をすることから始まった。我が家は都心部にあるのだが、電波の状況が悪いらしく携帯電話では話しづらい。かといって固定電話も半分壊れかけており、変な雑音が混じる。究極の選択だが、結局固定電話からかけて折り返しの電話をもらうことにする。 「はい、○○会社でございます。」 「○○ですが、年末調整のメールの件でお話があります。」 「・・・。私の声が届いてますか。」 電話口の女性にはどうやら私の声が届いていないらしい。電話の角度を変えたり、受話器の角度を変えたり、無駄な抵抗をしながらようやく会話を成立させる。 「控除証明書をインターネットにアップしたのですが、それだけでは提出したことにならないのですか?」 「はい、原本の提出が必要になります。」 そんなことどこに書いてあったんだ、と言いたくなる気持ちを抑え、 「では本日休みなのでこれから原本を持参します。」 私が言うと、担当者に確認し営業担当者から折り返し連絡するという。自宅の電波状況も考え、せっかくの休みを自宅でのんびりしていようと考えていたことも忘れ、外で電話を受ける為に外出の準備を始めた。電話がかかってきた際、今すぐ原本を持参せよ、と依頼される可能性も考え、原本を持参し行き先を派遣元会社に決める。 派遣元会社は新宿駅から徒歩10分程度のところにあり、私の定期券は新宿駅の一つ手前の駅まで利用可能である為、2駅分くらい歩くことになる。しかしながらスマホの動画を聞き流しながら歩いた為、さほどの距離感は感じなかった。その代わりに、自宅を出た際100%充電だったのが現地到達時には残り31%になっていて驚いた。古いスマホを利用している為、充電の消耗が激しいのだ。営業担当者からの連絡はまだない。 派遣元会社は、ビルの8階にオフィスを構えている。緊張の面持ちで入り口に向かうと、新入社員のような若い男性が一人立っていた。 「こんにちは。本日はいかがなさいましたか。」 「年末調整の件で参りました。」 私は先ほどの連絡内容を伝えると、入り口脇の簡易なベンチで待機するように命じられた。しばらくすると、別の若い女性が現れた。 どうやら先ほど電話で会話した女性らしい。 「原本の締切りが11月の末までだったんですよね。そのようにお伝えしておりますし、ホームページにあるマイページでもそのように書いてあるかと・・・。それに連絡もしてますし・・・。」 皆さんに何回か連絡している、というその女性に対し私は、メールも電話連絡も受けていない、と突っぱねた。 女性は、担当に確認してくる、と言い残しその場を離れた。再度一人取り残された私は、もう一度メールを確認してみようと思い立ち、スマホを手にする。すると再起動状態になり、出てきた充電の残量は1%となっていた。このビルに到着したときは31%であったのに。愕然としていたところに、先程の女性が戻ってきた。 「担当が二人とも会議中のようで、離席しています。チャットを使って事情は説明しました。私もどのような連絡を差し上げたのか確認しますので、もう少々お待ちください。では、お持ちいただいた原本を拝見します。」 原本を一通り確認すると 「では、私がこれを頂くわけにはいきませんので。」 と私に返却し、またどこかへ行ってしまった。去り際に、スマホの充電をしてくれないか、と頼んだが、あっさりと断られてしまった。 結局自分自身で確定申告するしかないのであろうか。面倒といえば確かに面倒だが、勉強にはなるか、と半ば諦めかけていた頃女性担当者が戻ってきた。 「お待たせ致しました。前例のないことなんですが・・」 女性が勿体をつける。 「今回に限り例外的に特別措置として、控除証明書原本を受け取らせていただくことになりました。」 「ありがとうございます。」 「ただし、今回限りということで、来年以降はPDFのみならず、必ず原本提出も必要になりますので、よろしくお願いします。」 私も負けじとここぞとばかりに日頃の鬱憤を伝える。有給休暇に関する連絡の不備、何も伝えてこない担当者、数えあげれば枚挙にいとまがない。自己責任と言われてしまえばそれまでだが、釈然としないものを感じる。が、一仕事終えた気分になるには十分であった。 ホッとしたのも束の間、次の仕事が待っている。どうせやるべき仕事が出来てしまったからにはついでに片付けようと思っていた次の仕事、国民健康保険の喪失手続である。区のホームページを見ると郵送で完結できるとのこと、コロナ蔓延による特別措置らしい。逆に言えば郵送による現物提出は必要ということであり、ペーパーレス化を推し進めようとしている我が国の矛盾を痛感してしまう。もっとも私はペーパーレス化を進め、IT先進国を目指そうと目論む日本の在り方には危険性を感じている。現金を持たずスマホ1本で商品売買が成立してしまうのはあまりにも簡単であり、あまりにも危険である。そこは犯罪の温床になりやすく、犯罪大国となりかねない。手続が面倒でも逐一書類や現金を必要とする昭和の方法が健全なものと感じるのは私だけではない筈である。 そんなことを考えながら新宿の郵便局を目指す。書類作成が必要であり、最低10分間は郵便局での作業が必要である。私はスマホの実情を思い出し、郵便局にいる短時間だけでも充電をしたいと思い、携帯ショップに突入した。思い出したかのように雨も降り出し、私の服はびしょ濡れになった。そのびしょ濡れになった服が負のスパイラルを醸し出しているかのようにまたしても充電を断られることになる。私の所持するスマホの携帯電話会社では、充電コーナーを撤去している携帯ショップが多いらしく、その店では充電器を持ち込まなければ充電も出来ないらしい。スマホは今や生活インフラであるにも関わらず、高価なものであり、携帯ショップで充電も出来ない。IT国家を謳っておきながらスマホで作業を完結も出来ない。こういった矛盾にイライラしながら携帯ショップの出口を開けると、天候もイライラしているらしく、外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。傘は持っていない。だが徒歩3分の距離にあるビルは新宿駅と直結になっていた筈である。 その距離をダッシュし、1分弱でビルに飛び込んだ。その1分弱の間に服はますます濡れそぼった。 もう既に新宿の郵便局に行く気は失せていた。優先順位はスマホの充電が上位に来た。そしてその時の私には、気軽に充電出来る場所として比較的頻繁に行く池袋のネットカフェしか思いつかなかった。スマホを確認してみると充電は未だ残り1%のままだった。誤表示かと思わせる位長い1%表示だ。池袋のネットカフェでは私はスマホ会員登録をしており、受付でスマホによる会員証を提示しなければならない。無論提示をしなくても利用は出来るのであろうが、円滑に済ませる為にも1%のまま保っていてほしい、と願った。 地下道を通ってきた私の足が新宿駅の改札口を通過した。目指すは一度地上に上がり隣の駅の新大久保駅へ。1%になろうが、外は土砂降りであろうが、新宿駅から乗ることは許されなかった。地上に出てみたら雨が止んでいるかもしれない。だがそんな目論見も虚しく、雨足は更に強くなった。 私はたまらずビニール傘を購入することにした。定期券の圏外である新宿駅から乗ろうが、定期券の圏内である新大久保駅から乗ろうが、傘は必要であろう。だが傘を購入した私を嘲笑うかのように直後、雨は止んだ。歩行者が次々に傘を閉じていく。そんな中私は一人傘を差しっぱなしにして新大久保駅へと急いだ。目的地の池袋駅に到着した時には既に雨は完全に止んでおり、晴れ間が見えるほどで傘を開く気にはなれなかった。充電はまだ1%残っていた。乗車した山手線の中で見た時も1%だった。時間との勝負である。目的地のネットカフェに着く。まだ1%。無事受付は済ませられた。ある意味奇跡である。私はそのままブースへと向かう。充電を開始し、インターネットの動画を見ようと試みる。が、見られない。動画サイトのページまで到達不可という表示が出る。そして受付まで戻りブースを変えてもらうことにし、別のブースへと移る。何と別のブースでも同様に動画が見られぬ。私はそのネットカフェにたまに通っているがこんなことは初めてである。再度受付に行こうかと迷ったが、その日はあまりネットカフェに長居をするつもりはなかったので諦めた。今日はそういう日なのだ、と割り切ることにした。締切りに間に合わなかった控除証明書の原本が受け付けてもらえたのが奇跡だったのかもしれぬ。今日は早目に帰って寝ることにしよう。私の心とは裏腹に、帰りの池袋駅は晴れ渡っていた。きれいな夕焼けまで見えた。少し心が癒されたまま帰路に着くとしよう。 帰りの山手線は空いていた。人身事故で止まっているという。私は適当に座席に座り、50%位まで充電が回復したスマホにイヤホンを装着して、ネットカフェの憂さを晴らすかのように、動画を見始めた。 何分経過したかはよく分からぬ。寝入ってしまったようだ。気付くと私の最寄りである巣鴨駅に到着していた。慌てて飛び起き間一髪のところで電車から飛び降りた。改札から出てみると外は嵐になっていた。先ほど池袋で見た夕焼けは何だったのか、と問いたくなるほどの変わりように驚く。そして先ほどまで無意味に持ち歩いていた傘がないことに気付いたのもこの時であった。発狂しそうな気持ちを抑え、どうしたものか悩む。悩んだ末に妻に連絡しようと思い立つ。と、先ほどまで勝手に流れていた動画の音が聞こえなくなっていることに気付く。見ればスマホの画面が消えている。充電切れである。どうやら1%の奇跡は2度は起こらなかったようだ。 途方に暮れる私の目に、駅からそれほど遠くないところにある公衆電話ボックスが飛び込んできた。まずうろ覚えである妻の番号にかけてみる。留守電に繋がる。次に自宅の固定電話にかけてみるが、これも呼び出し音が虚しく鳴り響くのみだった。この電話ボックスに雨宿りの為ずっと閉じこもっていようか、他の場所に移動するかを考えるが、とにかく一刻も早く帰宅して休みたい願望が優先した。私は電話ボックスを出るとダッシュして家へ向かう。 家に到着した頃にはびしょ濡れであった。おそらく鞄の中身も惨憺たるものであろう。とにかく家で入浴して疲れを取りたい。そんな私に更なる事態が追い打ちをかける。家の鍵がないのだ。おそらく出かけるときに家の中に置き忘れたのであろう。妻に見送られて自宅を出た為自分で施錠した訳ではない。あいにく自宅は真っ暗であり誰かいる気配はない。しばらく真っ暗な玄関の前で雨宿りをする。いや、正確に言えばいつ帰ってくるか分からない家族を待って茫然と立ちすくんでいた。 雨は一向に止む気配はなかった。どこか閉め忘れている窓はないか。侵入出来そうな場所はないか。無駄な抵抗はやはり無駄な抵抗に終わった。時刻は19時を過ぎたところであった。その時ふと郵便局に立ち寄るのを忘れていたことに気付く。こんなことになるのであれば、新宿の郵便局に立ち寄り、仕事を一つ片付けておいた方がよかった、と今更ながら思う。だがその仕事とは、国民健康保険の喪失手続である。別に本日無理に行う必要はない。今日出来ることだが明日以降に延ばそう。そう思った。が、そのまま鞄の中に入れたきり・・ということになりかねない。なるべく早く片付けるに越したことはない。しかも必ずしも郵便局での作業が必須というものではない。作業に必要なハサミとノリとボールペンが郵便局なら借りやすい、ということだけだ。作業自体なら近所のコンビニでも可能だ。雨も小降りになってきたように思える。私は自宅から徒歩1分のコンビニまで再びダッシュした。 コンビニには数人の客がおり、けっこうな視線を感じる。それもそうだ。全身ずぶ濡れで水滴が落ちている中年のオッさんの入店なのだから。あいにくハサミとノリは郵便局で借りるつもりであったので持ち合わせてはいない。 しかし筆記用具位あるだろう。鞄を探ったらそれらしいものは全く入っていなかった。店員に借りようとも考えた。が、こんなびしょ濡れの姿で話しかける気にもなれず、家に必ずある3つの文房具をあえて購入することにした。 幸い受取人払であり切手は不要である。鞄から書類を出してみると、案の定提出が憚られる位びしょ濡れの状態であった。今買ったばかりのペンで記入すると穴があく。何とかそれでも記入を続ける。郵便局で進める予定であった作業をコンビニで実施する。ようやく作業を終え、文房具と書類を鞄の中にしまおうとした時 「いらっしゃいませ。」 という声が聞こえた。と同時に 「パパだ。やっぱりパパだよ。」 妻と娘が私の側に立っていた。いつもの聞き覚えのある声だが、その時の私には天使の声のように思われた。 「どうしたの?こんなに濡れて。」 尋ねる娘に 「今日は色々とあったんだよ。まぁ、帰ってから話すよ。」 コンビニから出ると雨はすっかり止んでいた。水たまりにはしゃぐ娘をただ茫然と眺めていた。帰宅し入浴後本日の出来事を話すと妻と娘は笑い転げていた。 「でもよかったじゃない。原本受け取ってもらえて。」 妻が笑いながら言った。 「あれ、国民健康保険の喪失届は?」 「?」 鞄の中には3つの文房具とびしょ濡れの書類がそのままあった。 近日中に忘れずに投函するとしよう。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!