~1杯目~ 満身創痍OLと猫のマスター

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 詳しい種族はわからないけれど、綺麗な短毛で黒と白のツートン・カラー。金色の吊り目の瞳の眼光は鋭く、声色から怒っているようにも見える。猫は人と同じように二足歩行で背骨を地面と垂直にして立っている。そして、黄色いエプロンをしていた。身長もそれなりにあって、百七十五センチはある。 「キミの常識に違和感を感じるのは俺もなんだけれど、それは後に討論のネタにするとしてひとまずは座ったら? 誰も居ないから空いてる席どこでもどうぞ」  常識疑われて、対面するのが人間だったら思わずイラッと来るシーンなのだろうけれど目の前の猫に言われると怒りの感情は不思議と沸かなかった。  ひとまずは彼に一番近いカウンター席にちょこん、と腰を下ろす。  猫はカウンターの奥に置かれた古めかしい蓄音機に手を伸ばした。流れ出すメロディは聴いたことがないそれだった。英語の歌詞。でも、ボーカルの声はどこかで聞いたことがある。 「……ねぇ、それなんて曲?」 「普通、カフェで流す曲を尋ねるよりも先にメニュー決めないか? 一般的な常識の範疇として」 「あっムカつく。お客様の揚げ足取るような発言」 「自分でお客様なんて言うお客こそ禄でないと思うけどな。金落とさなくていいから今すぐ追い出してやりたい」  何この猫。ウザ……。  ひとまず目の前に置かれていた、それなりにしっかりとした茶色のレザーで作られたメニューを手に取る。  ……分厚い。普通のカフェじゃありえない分厚さだ。これは一体なんですか。  いきなり飛び込んできたショートケーキの写真に惹かれた。凄く美味しそう――というトキメキ。そして、次の瞬間に気付く。 「絵、だよね」  飛び込んできたのは写真と見間違う程にリアリティのある絵だった。  どうやったらこんなに綺麗な絵を描けるのか――魔法でもかけられたような絵だ。 「俺が描いた。何か文句ある?」 「へぇ、すっごい!上手なんだね」  パラパラとめくると品目一つ一つに絵が添えられている。カボチャのパイ、グラタン。コーヒーなんてマグカップから今すぐに湯気が立ちそうだ。 「……いいから、早く注文決めろよ。こっちは待ってるんだってさっきから言ってるだろ」  彼の鋭い眼差しが妙な方向に逸れる。その頬が少し赤くなり、伸びるヒゲがぐいぃぃん、と上がった。 「もしかして、照れてるの?」 「べ、つにそんなことはない」  明らかに動揺している声。猫だけに随分とコミカルな絵で凄く可愛く見える。 「それじゃぁ、ケーキセット。ショートケーキとアイスティーのセットで」 「この時間にケーキって……太っても当店は責任を持ちませんが、それでもよろしいでしょうか?」 「バカにしてるのかこの猫」  呆れたような目を向けてくる猫に流石にキレそうになったものの、相手は所詮猫だと理性で怒りを押し止める。 「畏まりました。少々お待ちくださいませ」  猫はカウンターの奥のスペース、厨房に引っ込んでいった。そう思ったのは客席フロアが温かい暖色系の蛍光灯なのに対してそのスペースから漏れる光は実用的な寒色だったからだ。  私はひとり取り残されたタイミングで店内を見回した。まるで大きな木をくり抜いて作ったような木造感が凄い。カウンターの後ろには透明のサイフォン。木製の棚に大量のCDとレコードが収められていた。音楽が好きなんだろうか。四人がけのボックス席が三つ。いずれも木のしっかりとした造りの仕切りで区切られ、一つの小部屋のようだった。そこに小さな絵が数枚、額に収められて飾られていた。水面に浮かんだ薔薇の花束、片翼を失った天使、空高くそびえる石塔。どれも一見写真のように見えるが、絵だ。此方はテーマがテーマなのでわかりやすい。ただ、繰り返すようだが写真のようだ。  あの猫が描いたんだろうか。  私はもう一度メニューを開いた。今度は注文するためでなく、あの猫の描いた絵を見るために。 「……ケーキまで頼んでおいて、キミは更に追加で注文するのか」 「……っ!」  軽蔑するかのような猫の声に思わずメニューを閉じる。 「べ、別に追加なんてっ」 「お待たせしました。ケーキセット、苺ショートとアイスティーです」  弁解を軽く受け流され、私の目の前に置かれるメニューそっくりのケーキとアイスティー。 「それと、こちらは当店からのサービス」  彼が差し出したお皿に乗ったカップから湯気が立っている。不思議な匂いがした。 「カモミールティー。宜しければどうぞ」 「ありがとうございます……いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」  めしあがれ、なんて久々に聞いたフレーズな気がする。最後に聞いたのはいつだろう、思い出せない。  少し悩んでからハーブティーに唇をつけた。少し飲んだだけなのに。 「……あ、これすっごく美味しい……」 「俺が淹れたんだから当然だろ」  サービスしてくれるなんて嬉しい、と思ったのに前言撤回。生意気なのは変わらない。 「さっきの話の続きだけれど」  猫は黒いマグカップを片手にカウンターの中にある小さな椅子に腰を下ろした。自分の分も用意したらしい。
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