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「……さっきの話ってどれ?」
「……キミの常識が可笑しい話とか、デブになるって話を蒸し返しても良いんだが?」
「それは蒸し返さないで。こっちからノーサンキューだから」
「音楽の話だろ、普通に考えて」
私が首を振ると、少し怒気混じりの声で猫はつぶやいた。
「『ザ・ビートルズ』の『ノルウェイの森』」
「……ごめん、聴いたこと無いや。それ有名なの?」
「……、……曲名はともかく、ビートルズ、というバンド名も聴いたことはない?」
唖然とした表情を猫が浮かべる。今にもマグカップを落としそうだ。
「えっと、なんか色々ごめんなさい? でも、どっかで聴いたことある声だなぁとは思ってるよ」
「よし、今俺が一番聴きたい曲をかけてあげよう」
彼はマグカップを置いて席を立った。蓄音機に近づいてレコードを上げると、それを新しいものと差し替える。
ツー……ともブー……とも違う重低音のノイズの後、『Help!』と始まる歌詞と共に軽快なリズムが刻まれる。
記憶中枢が一気に刺激された。
「あぁ、この曲は知ってるよ!」
「今でも使われてる一番有名な曲だからな。でも、どうせ曲名は知らないんだろ」
……畜生。知らないから何も言い返せない。
「『Help!』だ。……日本語訳は必要?」
「『助けて』でしょ流石に知ってる! そしてバカにしてる!?」
「別にバカにはしてない。ビートルズを知らなくても生きてはいける。でも、バカで無知なキミに教養というものを教えてやってる感覚ではある」
「やっぱりバカにしてるんじゃない!」
「俺が今一番聴きたい曲をかけただけさ。……序盤の歌詞の意味知ってるか?」
彼の口ぶりに私は首を横に降った。
猫はレコードから針を上げると曲は一度途切れ、勢いのある出だしに戻った。
Help,Ineed somebody,
「誰か助けて!」
Help,not just anybody,
「誰でもいいというわけでもないんだけど」
Help,you know Ineed someone,help
「助けてくれよ僕には助けが必要なんだよ」
彼は曲の歌詞に合わせて日本語でその意味を呟いた。
「まさに今の俺の気持ちだ。ビートルズを知っている誰かとこの気持ちを共有したい」
「ねぇ、バカにしてるよね?」
「してない」
ふふ、と彼は小さく笑った。それにつられて、私も歯を見せて笑ってしまう。
「さっきの……『ノルウェイの森』って、どんな歌詞なの?」
「あぁ……それ聞くか」
彼は手を顎に当てる。
「気になる。ちょっと知りたい」
「確か……男女が一緒の家に泊まった。けれど、彼女が思わせぶりな態度を取るのに結局交尾させれくれなくて、寝てしまう。結局男は風呂で眠る羽目になった。翌朝目が覚めたら彼女はどこにもいなくなっていた。俺はノルウェーの森に火をつけた。……そんな歌詞だったと思うが」
「……なんか、イメージと全然違うね」
歌い方も、メロディも、言われてみれば森のなかにいるように落ち着いていて、爽やかだった。
なのに歌詞の意味を知ってしまうとたちまち違う曲のように思えてしまう。
「フラれたからって森に火を放つなんて、随分と過激な歌詞ね」
少し怪訝な表情を浮かべる彼は元の椅子に腰を下ろすと、マグカップを手にとった。
「歌詞の日本語訳がたくさんあるんだ。よくわからない文法で紡がれた英語だから、解釈の仕方も様々なんだよ。タイトルだってストレートに直訳すれば『ノルウェイ産の木材』になるしな。それが今や『ノルウェイの森』で落ち着いているくらいだ」
「へぇ……」
「その歌詞に込められた意味を知るのはその詞を書いた本人だけなんだろうな。聞き手である俺たちにはそこに込められた意味を百パーセントは理解できない。Y=logXの式が示すグラフがどこまで進んでもY=0になれないように」
「……、……ごめん、Y=logXの示すグラフがまず思い浮かばない」
「バカだ。お前はやっぱりバカだ」
「何よ! さっきから人のことをバカだのデブになるだの言いたい放題言っちゃって……!」
「バカなのは事実。デブになるかどうかは目の前のショートケーキを見て俺が感じた素直な感想」
しれっと受け流す彼と、そんな言い合いをしながら誰も居ない店内でおしゃべりをし続けた。人のことをバカだアホだと事あるごとに罵ってくる彼は何故か嫌いになれなかった。
壁に掛かった振り子式の時計が音を四つ鳴らす頃までおしゃべりを続け、五つの音は鳴った記憶はなかった。
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