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「はやく絵が描きたいな。どうして数学なんてやらなきゃいけないんだろう。将来なんの役にたつっていうの」
志帆がぼそっとつぶやいた。
そうだ、感傷にひたっている場合じゃない。今日中に一次関数を教えるという大仕事があるんだ。
「そんなこと言ったって、やるしかないだろ。このままじゃ行ける高校ないぞ」
「勉強で決めるなんて、世の中不公平だよね。わたしもお兄ちゃんみたいに頭よくなりたいな」
兄妹で似たようなこと考えてるなと思って、ちょっとおかしかった。
「ネガティブなこと言ってないで、努力しろよ。おれが教えてやるから」
「お兄ちゃん、ほんと教えるの好きだよね」
「え?」
「だって教えてるとき、生き生きしてるじゃん。普段はあんまりしゃべらないのに」
たしかに教えるのは楽しいかもしれない。どこでつまずいてるのかなとか、どう説明したらわかりやすいかなとか、考えてたらあっというまに時間がすぎていた。けど、そんなに生き生きと教えてるのか、おれ。こいつに見透かされてるのは、ちょっとはずかしい。
照れかくしに、ぶっきらぼうに言った。
「身内に家庭教師がいるなんて、おまえくらいだぞ。ありがたく思えよ」
「もちろん思ってるよ。お兄ちゃんがいなきゃ、絶対無理だもん。いつもありがとう」
「べつにいいけどさ……」
素直かよ。調子狂うな。木の枝をじっと見ているふりをした。すっかり冬枯れしているように見えた枝の先に、小さな赤い木の芽がついているのが目に入る。今は寒そうに身をすくめているけど、もう少ししたら若葉が開くのだろう。
「ねえ、おなかすいたよ。早く行こう」
そういえばおれも腹ペコだ。
「何言ってんだよ。さっきまでぼーっと突っ立ってたのはおまえの方だろ」
文句を言いながらまた歩き出す。なんとなく心があたたかく、足取りが軽かった。
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