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白い靄は黒い雨を隠す。
──整然とした美しさは、ときに人を破壊衝動へと駆り立てるらしい。完成された絵画の上からペンキで絵を塗り潰すような、未完成を尊ぶひとつの愛の形だろう。薄闇の帳の落ちた美術室の中、自分に背を向け立っている人影を見詰めながら、廣江慧は考える。
「あ、廣江?」
……こちらに気付いた人影が、喜色を滲ませた声で振り返った。薄暗がりでも分かる程度の健康的に色付いた頬や鼻先には黒い絵の具が擦り付けられており、片手には視認しづらいものの彫刻刀が握られていることが窺える。
「またやったのか、瞬」
思わず、腹の底から呆れたような声を絞り出した。
「だってまた納得のいく出来になんなくてさ……」
声の主──双葉瞬の視線を追うように目を向けると、床に打ち捨てられたキャンバスが視界に飛び込んできた。恐らくは人物画を描いていたのだろうが、その顔貌は全面を黒いアクリル絵の具で塗り潰されており、眼と思しき場所には十字の切り傷が執拗につけられていた。描かれている人物が誰であるかはそこから全く伺い知れない。
「お前は充分良くやってるだろ?もうやめておけ」
「駄目だよ、全っ然駄目。まだまだ俺には技量が足りないんだ。あの子を描くには全然力が足りない」
「そう言って何回絵を描いてこうして、を繰り返して来たんだ?美術部の顧問も嘆いてたぞ」
「先生も?困ったなあ。そんなつもりじゃなかったんだけど、悲しませたなら謝らなきゃ。あ、もしかしてさっき顧問の先生に会ってその話をしたの?今からすぐ行けば俺も会えるかな……」
眉を顰めて苦言を呈する慧に対し、瞬は眉尻を垂らして柔らかい笑みを浮かべた。傍目に見れば温和かつ人好きのする笑顔だ。……だが、だが。この宙を漂うような、どことなく要領を得ない回答。瞬が"こう"なってから、廃棄になったキャンバスを片付けるのは放課後の慧の日課となっていた。美術室の隅に積まれたその山は、完成まで描かれる事の無かった『彼』を弔う墓標のように静かに佇んでいる。
「──大体、どうしてそんなにアイツを描く事に拘るんだ?良い題材はこの世界に幾らでも溢れてるだろ」
……この際だ、と。長らく疑問に思っていたけれど聞けなかった事を投げ掛けてみる。瞬にとって"アイツ"は所謂『名前くらいは知っている』程度の関係だ。
だが、その問いを投げ掛けた──刹那。
ぎら、と。瞬の握る彫刻刀の刃が、外から射し込んできた明かりを受けて鈍く煌めいた。
「かみさまをとむらうためだよ」
「──っ、」
ぞわ、っ。
全身が総毛立つ感覚に奥歯ががちがちと音を立てる。
慧は、こんな瞬の姿を見た事が無かった。
「……俺にとっての描きたいものは、絶対に俺を見てくれなかったんだ。あの子の世界の中に俺は居ない。俺どころか誰も入れてくれはしないんだろうね。だから傍で描く事すら叶わない。あの子はつくりものみたいにとても綺麗なのに、薄皮を一枚めくれば俺達と同じ中身が詰まってる。それを考える度に堪らなくなるんだよ、あの中身を全て紙の上に引きずり出して描いてしまえたらって」
「瞬、」
慧の知っている瞬は、少し抜けているところが有って皆からちょっかいを出される事も有るけれど優しくて気の良い奴だ。
「俺にとってのかみさまの中身を抉って、引きずり出して、ぶち撒けて、紙に全て描き出してやりたい」
コイツのこんな顔は、こんな眼は、見た事が無い。
「なあ、瞬、」
「かみさまも俺達と同じで中身は真っ黒だって分かれば、このどうしようもない苦しさからも救われると思うからさ。なあ、慧。お前はどう思う?教えてよ」
「お前は、自分にとってのかみさまをとむらいたいと思った事はある?」
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