黒い雨は赤い海を穿つ。

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黒い雨は赤い海を穿つ。

──淡々としている、が、第一印象。別段抜きん出て大人びている訳でも無いのだが……最初に彼を見た時の物事に固執せずただ茫洋とどこかを眺めている目が、瞳に反して固く引き結ばれた唇が、酷く秀悟の心を揺さぶったのを覚えている。長い睫毛に縁取られた眼がこちらを見ると、訳も無く心臓が跳ねたのも記憶に新しい。 「──……ここに何しに来た」 ……ああ、そうか。あの日も同じ事を言ってたなあ。 これはあの日の夢だ。無意識下の俺がそう言ってる。 「!」 そう。二の句の告げなくなっていた俺に、遼くんは呆れたような顔をしていたっけ。他人に興味が無いって言いたげな声が、抑揚の無い音と違って少しだけ震えていたのも覚えてる。 「──用が無いなら帰れ」 ふい、と。また本に視線を向ける遼くんに俺は肩を掴んで、それから── ──記憶は、そこで途切れている。 そして、真波秀悟は目を開けた。 「もうこんな時間か……」 既に日は傾き、外からは運動部のものと思しき掛け声が聞こえてくる。長らく机に伏していた身体はあちらこちらが抗議の悲鳴を上げていた。 「……随分気持ち良く寝てたね、真波」 「瞬くん?」 「もう部活の時間だよ、俺はお前を探しに来たんだ」 「あ、そっか。ごめんごめん」 空き教室で転寝をしていた秀悟は、部活の仲間である少年──双葉瞬に促されるままに起き上がる。傍らで秀悟を起こすかどうかを迷っていたらしい彼は、眉尻を下げて人好きのする微笑みを浮かべてみせた。 ……程よく健康的に焼けた肌に上背はそんなに高くないものの均整の取れた身体つき、そして快活そうな見た目に反し落ち着いた声のトーン。見た目からすれば運動が好きそうにも窺えるのだが、本人曰く「運動は身体センスが問われるが、絵は自分の思うがままに描けて正解の形が無いので好き」とのことなので美術部に籍を置いている。余談だが瞬のギャップが云々という話で、部活動の時間に美術部の前を通り過ぎる女子生徒は大抵一度は足を止めていく。 秀悟も彼女達の気持ちは理解出来る節はあった。 何故なら、──…… 「真波が時間通りに来ないとみんなが心配するよ、普段からそういう所は几帳面なんだからさ」 「ごーめーんって!」 「嘘うそ、いや嘘でも無いか。ちょっと揶揄ったのは認めるけど、みんなが心配してたのは本当だよ。……ほら、早く行こ」 目の前の少年が口角を上げて悪戯っ子のように笑うさまはある種の可愛らしさすら感じさせる。瞬は決して明朗闊達とした喋りでもないのに、他人の心にするりと自分の声を落とし込んでくる不思議な人間だ。 秀悟は図書室で借りた本を片手に立ち上がると、凝った身体を解すために一度二度と伸びをする。その様子を見た瞬はまたひとつ、笑い声を上げた。 ──それにしても。今日はいやに、瞬の機嫌が良い。 「おじいさんみたいな声が出てたよ」 「げ、本当?まだまだ若いんですけど」 「俺達も後輩から見たらおじいさんに……」 「現実を突き付けないで、双葉くん」 わざとらしく名字で呼んでみせれば瞬は笑いを抑えきれていない表情で肩を竦める。──そうして逸らされた視線は、秀悟が借りていた本の表紙で留まった。 「……ん?それ、」 「これ?遼くんから勧められて借りてるんだよ、瞬くんも知ってるよね。瀬野本遼くん」 瞬間、二、三拍。不自然な間が生まれた。 「……知ってるよ。へえ、こんな感じのものも読むんだ。瀬野本は割と堅めのタイトルの本を読んでるイメージが有ったから、なんか意外だね」 「そうそう。でも遼くんなら図書室の本も幅広く網羅してそうな気もするから、読んでたとしてもおかしくはないよなあとも思ったりもしたよ」 秀悟はその不自然な間を気にせず続ける。 「良かったら瞬くんも読む?」 そう尋ねると、瞬は僅かに目を見張った。 「──」 永遠にも思えた、肌を刺す沈黙。 「……って、こんな話をしてる場合じゃなかった!部活に戻らないと。呼びに来てくれてありがと、そろそろ行こっか」 慌てて身支度を整える秀悟に瞬は変わらず人好きのする笑顔で応えた。それはもう、寒気がするほどに『完璧な』笑顔だった。 「──ありがとう。真波の次に、俺も借りるよ」 そして、音なく唇だけで紡ぐ。 『かみさまの、かけら。だいじなかけら』
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