23人が本棚に入れています
本棚に追加
3.末っ子の|矜持《きょうじ》
和貴と京太郎は、じっとパソコンを覗き込んでいた。
あと2分で、和貴が参加した国際コンクールの結果が発表される。
1次、2次と進み、国内最終予選ではコンツェルトを弾いた。まだ予選である為、オーケストラパートはコンクール側が用意した嘱託伴奏ピアニストが務めるか、出場者が手配をした伴奏者が務めることとなる。
コンクール出場前に大学の嘱託にエントリーしていた京太郎は、折良く大学側からの依頼もあり、初の嘱託仕事として引き受けたのであった。
大学側も、トップを張る和貴が予選を突破し、ウィーンでの本選に出場することを全面的にバックアップするつもりでいる。何しろこの不況と少子化で音大はどこも経営が苦しい。卒業したところで食えるのかという保護者の不安も、人気の陰りに拍車をかけている。それだけに、和貴は大学の命運も背負った期待の星なのである。
『スナック・沙絵』で、目を血走らせてパソコンに食い入る二人に、バーテンダーの度会政利がイタリア製のコーヒーマシンで煎れたカフェ・ラテを用意した。
「出た……2803、3065、あれ、おまえ幾つだっけ」
「3、3056……ああ…… 」
和貴は両手で顔を覆ってしまい、最早パソコンを直視できなくなっている。
「ウソだろ、貸してみろ」
京太郎は和貴の手元から受験要項を引ったくり、番号を確かめた。
「ほら3065じゃん……え、3065? 間違いない、3065!! 3065ッ! 」
「マジ……」
霧生和貴、見事モーツァルト国際コンクールの日本予選を突破し、三ヶ月後にウィーンで行われる本選に出場することが決定した。
朝は6時に起きて1時間ほど指を解す程度の軽い練習をこなし、朝食を食べたらすぐに学校へ。授業はきちんと出席し、京太郎と落ち合って本選のコンツェルトの練習へ。そして二人で外国人の客員教授のレッスンやら、京太郎がついている超絶巨乳美人女史やら、ひたすらレッスンに行き、帰宅後は夕食前、夕食後と、日付が変わるまで弾き込む。
頭がおかしくなるのではと心配した兄達が、少し休むように言うが、和貴は取り憑かれたように毎日ピアノの前に座り続けた。
負けたくない、負けたくない、自分に、負けたくない……念仏のように唱えながら血走った目で鍵盤を追っていた和貴から譜面を取り上げたのは、大学に入って初めて出来た親友の、連城京太郎であった。
「音楽じゃねぇよ、もう」
「でも、まだ納得するところまで出来ていない。最終予選まで時間ないんだ」
「だから、少し力を抜けよ。今のお前のピアノは楽しくも何ともないし、綺麗でも華やかでもない。女房に金渡すためにメサイアを編曲していた頃のモーツァルトみたいだ」
言われても、すぐには何のことか分からなかった。
小さい時から、真綿に包まれるようにして三人の兄達の愛情を受けて育った和貴に、何かに渇望した記憶は殆どなかった。欲しいものは何でも長兄が与えてくれたし、年齢なりの経験をさせるために次兄はあちこち連れ出してくれたし、末兄はいつも美味しい食事と清潔な生活環境を整えて、健全な暮らしを用意してくれた。そのせいか、負けん気など皆無に等しく、勉強は中庸、徒競走も中庸、ピアノも、ついていた先生の門下生達の中ではむしろ凡庸だった。
でも、上に行きたいとか、上手くなりたいと、手を伸ばすように渇望したことはなかった。
自己主張を殆どしない和貴は、友達も少なかった。いや、いなかった。ただ座っていれば友達ができると思っていたと言うほどに、自分から人に接触することをしなかったし、仕方が分からなかったのだ。ただ、そんな和貴が高学年になってもイジメられず、教師の偏見に晒されることもなかったのは、偏に長兄・夏輝が警察庁官僚であるおかげと言えた。両親のいない子供というだけで、小学校に上がったばかりの頃は要注意児童のように毎日毎日補助教師がついてまわって根掘り葉掘り家庭生活のことを聞かれたものだ。だが、4年生の時に長兄が国家公務員となると、保護者としての信用も格もグンと上がったのか、煩く付きまとわれることも無くなった。
とはいえ、当の兄達はよく喧嘩をするし、ベタベタしたりもするし、次兄と末兄は保護者として格を上げた?長兄に一方的に怒られていたりもするし、何かと騒がしい事に何の変わりはなかった。
今日も高校から帰ってきたら、次兄と末兄がまるで痴話喧嘩のようにギャンギャンと吠えまくっていた。どうも、次兄が自分をサッカーの試合に連れていこうとするのだが、末兄がピアノの試験が近いから練習を休ませたくないと言っているらしい。本人が何とも思っていないのに、人のために喧嘩ができる兄達は、何と情の濃い人間なんだろうとすら思う。
声をかけるのも躊躇い、和貴はそのまま練習室に閉じこもった。
玄関を上がってすぐの洋間は、かつてここに四兄弟を引き取ってくれた祖父の部屋であった。両親の事故死の後、間も無く亡くなってしまい、長らく空き部屋になっていたが、今はグランドピアノを設置した完全防音室に生まれ変わっていた。自分が中学に上がる頃には既に警察庁で順調に出世の階段を登り始めていた長兄が、音楽高校を受験することを相談した日に、一瞬の躊躇もなく工事を手配してくれたのであった。
音楽高校は、勉強も普通に出来ていれば入れた。が、ピアノ科の連中は学力も高く、1学年ほんの2クラスしかないうちの、ほんの30人ほどのピアノ専攻の連中は、定期テストの度に平気で満点を叩き出し、平均点が毎回90ラインを超えてくる。聞けば、上京組も近郊組も、それぞれ有数の進学校の出身だったり、中学時代常にトップだったりしたのだという。文武両道ならぬ文音両道である。
専門教科の楽曲分析や和声法、音楽史に楽典に新曲視唱にソルフェージュなど、五感をかきまわして鋭敏に磨いていく教科の他に、高校としての一般教科があるから、勉強すべき科目は普通の高校より多く、テストも数日間に渡る。その他に、音高の本分である実技テストがあるのだから、遊ぶ暇などあるわけがない。
のんびりしていたら、あっという間に和貴の勉強の成績はピアノ科の底辺に落ち込んだ。先生に何度となく学校に呼び出され、その度に三人の兄が代わる代わる頭を下げに来てくれた。女子が多い学校でもあるので、兄が来ると女子達の黄色い声が木霊する。それがまた面倒で、先生達は段々呼びつけもしなくなってきた。
「塾、行ってみる? 」
夕飯を食べながら、末兄の光樹に聞かれたが、和貴は首を横に振った。
「でも、実技が良くても、あの学校は学科が悪いと進級できないよ」
しかし、和貴は首を横に振った。
二十代後半に差し掛かった長兄と、地方公務員として3年前から警視庁に入った次兄は、だんだん夕食の時間に帰ってこられなくなっていた。気付くと、もう何ヶ月も、光樹と二人だけの夕食が続いていた。
「光樹兄ちゃんは、何で大学に行かなかったの」
「大学で勉強するより、面白いことがあるから」
間髪入れずに、光樹はさらりと答えた。
確かに光樹だけは1日30時間くらいあるのかと思うほどに目紛しくいつも何かをやっている。家事、育児、資格の取得も甚だしく、つい最近も何か取ったと言っていた。床の間にいきなり木刀が飾られた時など、柳生新陰流の目録を取ったと、キャベツを千切りしながら笑って答えたものである。
懊悩の青春時代を埋め尽くす勢いで、いや上書きして塗り替える勢いで、この末兄は脱皮を繰り返し、道を拓き、逞しく家族を支えてきた。
「ウチは二人も堅い仕事についているんだから、一人くらい自由人がいたっていいでしょ。だからって仕事してないわけじゃないよ。やりたいことはもう、すんごくいっぱいあってさ、人生一回じゃ足りないくらいなんだから」
「へぇ……」
食卓の中央に鎮座する光樹特製のピカタをもう一つ食べようかどうか迷っていると、スッと光樹が皿を和貴の側に滑らせた。
「沢山お喰い」
「おくいって……」
「ピアノ、つらい? 」
つらい、そんな風に思ったことさえなかった。ピアノがあれば満足だったが、確かに、弾けと言われる曲を弾くだけの連続には、少し違和感があった。
「夏輝兄さんがさ、ピアノをやらせたのは自分だからって、責任感じちゃって……音楽の世界って、もっと綺麗でゴージャスでふわふわしたものだと思ってたんだよね、私たち。まぁ、芸術音痴だからね、どいつもこいつも。けど、音高受験の前から、まるで格闘技みたいに朝から晩までピアノを弾いて、レッスンで罵倒されて……一度偉い先生のところに一緒に行ったじゃない、私さ、胃が痛くて胃が痛くて死にそうだったんだから。よくあんな過酷なレッスンを毎回受けてるなぁって、感心したよ。一音一音突かれて、パッセージ? 曲のイメージだのペダルだの、クっソミソに罵倒されて……もうね、五感が分解して粉々になるんじゃないかと思ったよ。こんな過酷な世界だとは、全然思わなかった」
「兄ちゃんだって、音楽やるじゃん。踊りの振り付けとか、するんでしょ」
「アプローチが全然違うって。やっぱり一つを極めるって、凄いよね」
「凄い? 」
「うん。和貴は凄い。ウチの誰にも真似できない。二人もそう言ってるよ」
こんなに美味いピカタを作れる方が絶対凄いと思う……和貴はもう一つ、ピカタに手を伸ばした。
ウチの誰にも真似できない。そんな光樹の言葉を真正面に受けて、和貴は少し、上向いた。やはり凡庸だったなぁと思うのだが、そう言われて初めて、兄達には逆立ちしても追いつかない自分の凡庸さに嫌気がさしていたことに気づいた。だが、そんな凄すぎると思っていた兄達から凄いと言われたことが、ほんのその一言が、これ程自分を持ち上げてくれるとは思わなかった。
「ブラームスのスケルツォが良いです」
試験曲はこれにしなさい、とさも当然のように曲の名を出された時、和貴は敢然とそう言った。
「君には早い」
「いえ、弾いてみたいんです」
「僕の指示に従えないなら、もう教えることはない」
あっさり、主科担任に見放され、格段に若い非常勤講師の門下に替えられてしまった。
しかしその非常勤というのが、後に武蔵澤音大の名物講師となる人物で、自分で曲を探して自分で土台を作ってこい、というレッスンスタイルであった。
合った、それしかない。水を得た魚のように、和貴は再び音楽に没頭していくこととなった。
そしていつか、素晴らしい兄達に自分も何かで肩を並べ、兄達にとっての自慢の弟になって、恩返しがしたい…そう欲する気持ちが芽生えていた。
「よし、先週よりだいぶ良い感じに力が抜けてきたな」
最終予選進出を決めた翌日、一通りモーツァルトのコンツェルト第20番を終楽章まで合わせてもらった後、京太郎から久しぶりに良い言葉をもらえた。
「メサイア編曲してる頃のモーツァルトって言われて、ピンとこなかったんだけどさ……何か、わかった気がして」
純粋にバッハやヘンデルといったバロック音楽に刺激を受けていたモーツァルトだったが、この大曲を編曲する33歳頃には既に家計は逼迫状態にあり、今までになく貴族に阿ったり無茶な依頼に従ったりと、純粋な作曲意思とは別の何かに追い込まれていたことは想像に難く無い。それだけに、難解で記憶に残らないなど、酷評を受けたのもこの頃の作品に多い。
「何か、ねぇ。スイッチ見つけるのが難しいんだよなぁ、おまえは」
「そうかな」
「ガリガリ弾きすぎて、取り憑かれた感じで怖かったぜ。本選が射程に入って、欲が出た⁉︎ それとも、兄貴を見返したいとか、純粋な演奏からちょっと脱線してた? 」
「んん…ミソッかす卒業したい、ここで負けたらまた兄ちゃん達の羽の下だ…上手く言えないけど…」
「これが俺だ!っていう冠が欲しかった?」
和貴は歯に噛むように口元を解した。
「解るよ。俺にはこれがあるから、いつまでも守ってくれなくて良い、ほっとけ! てな」
「そ、そこまでは流石に…」
2人が声を上げて笑った。互いに親の縁が薄く、兄弟に守られて育った者同士だ。与えられる愛情の暖かさも重さも複雑さも知り尽くしている。
「とにかくさ、和貴、雑念は捨てろ。素直に弾けばいい。今日なんか、ミス多くたって、聞いてて楽しいし、曲の世界観もよく掴めてる。オケ伴だからって俺は一切合わせる気は無いし、あくまで独立したオケを想定して弾いてるつもりだけどさ、こんだけちゃんと絡めてるんだから、あと一息だよ」
「何が足りないかな」
「……んん、ヨハン先生曰く、パッショーン! みたいな」
高齢の客員教授で、大学三年生になったこの春から門下に付いたヨハン・スヴェトービチ先生の大げさな身振りを真似て、京太郎が和貴を笑わせた。
「この曲を書いた29歳の時って、どんなんだろうな。ザルツブルグを出て、ウィーンでフリーで活動始めて、不器用なりに売り込んで大成功して……その先の人生に不安を感じたのかな。突然こんな、心の深淵が凪からざわめき立つような短調の曲を書くなんて」
ふと、京太郎がそんなことを口にした。
この親友は……親友と呼ぶまでにはそれほど時間はかからなかった親友は、時として哲学者のようなことを口にすることがあった。本人は、自分はただの飲み屋のピアノ弾きだなどと言うが、深い洞察力、音楽の見識、流石に耳の肥えた客を毎日相手しているだけに、知識量は足下にも及ばない。こんな曲の背景がさらりと出てくるのも、京太郎ならではだと思う。親友であり、尊敬に値する師でもあるのだ。
「不安かぁ」
「和貴だって、一見スーパー坊っちゃまで何の苦労もなさそうだけど、中では色んな感情が渦巻いてた時もあったろ」
「うん……多分」
「何だそりゃ、毒味の無い奴だなぁ」
だから面白く無いと言われるのだが……と和貴は口籠った。
「ここまで弾けてるんだ。練習は流す程度にして、本読んだり映画見たり、感性をリセットしてやれよ。泣いても喚いても、二日後だ」
大学の2台ピアノの練習室は予約を取らなくてはならない。しかもかなりの倍率であり、もう次の利用者がノックしてきた。学生が一度に予約できるのは1時間までだ。
「やべ、話してたら終わっちまったな」
ぼんやり考え込む和貴をよそに、京太郎はさっさとピアノを片付け、和貴の荷物まで持ってくれた……。
国内最終予選の日も、こうやって京太郎が背中に立ち、雑念や迷いの全てを引き受けるようにして和貴を舞台に押し出したのだった。
和貴一人では、そして音楽を知らない兄達が盲滅法に励ましただけでは、ここまでは来られなかった。
スーツケースを手に税関を抜けた時、ポトリと足元に落ちてきたパスポートを拾って、和貴は持ち主である親友に手渡した。
「京太郎、落ちたよ」
「おお、悪ぃい」
英語で表記された大看板を見て、二人は大きく息を吐いた。
「来ちゃったね、ウィーンに」
「ああ、来ちゃったな……俺、英語あんまできないから、ヤバイ」
「僕も……ドイツ語もわかんない」
「てか、外国初めて」
「僕も」
国内最終選のコンツェルト、ミスなく弾けはしたものの、京太郎に指摘された何かは、まだ足りない気がする。もう一度弾き直したい、そう願って結果を待っていたら、又と無いチャンスを手にすることができたのであった。
あと2ステージ勝ち上がれば、またあのコンツェルトを弾ける。今度は本物のオケが相手だ。それまでの練習用のオケ伴として付いてきてくれた京太郎が無駄足にならぬよう、納得の行く演奏ができるよう、今すぐに準備をしたい、和貴にあるのはその一念だ。
「僕、練習室に直行するよ」
コンクールには、一切を手配してくれる旅行代理店が間に入っており、市内の音楽学校の練習室を本選までの日程全て、確保してくれている。明日には、二台ピアノの練習室も使える予定だ。
「ええ、一人で大丈夫か、おい」
「何とかなるよ。京太郎は先にホテルに行っててね」
毅然とした笑顔でそう答え、和貴はスーツケースを引きながらタクシー乗り場へと歩き出した。
その背中には、強い芯がしっかりと通っている。真っ直ぐに頭を上げて見知らぬ国で堂々と振る舞う親友の姿が見えなくなるまで、京太郎はエールを投げ続け、見送った。
新宿沙絵・外伝
〜霧生家の秘密〜
了
新宿沙絵vol.2へと続きます。
最初のコメントを投稿しよう!