2.兄ちゃんの憂鬱

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2.兄ちゃんの憂鬱

 青梅街道と新青梅街道が合流するあたりに建つ田無警察署。昭和建築ではあるが、古臭いと言うほどではない。  田無駅から徒歩6分で、ランチや買い物にも事欠かない。これまでの激務を考えれば、霧生夏輝にとっては幸甚この上ない。  南雲梨華(なぐもりか)の事件で元首相の沢山と渡り合い、警察庁上層部の膿にも触れる事態となった。色んな方面への面子のために、夏輝は一旦出世街道を外されたかのように都下の所轄へ飛ばされることとなったが、階級は警視正に昇級、署長としての着任であり、上層部との絶妙な痛み分けとなった。ほとぼりが冷める頃には、再び警察庁へ戻れるとは思うが、この数ヶ月の規則正しく平和な生活が、夏輝には最早手放し難くなっていた。  新宿までは和貴と一緒に小田急線に揺られ、西武新宿駅までは健康維持にちょっと足りないくらいの歩数を稼ぎ、西武新宿線の始発から下り方面に乗るのだ。なので、今日も座って電車に揺られながら、大好きな剣豪小説に耽溺することができた。  これもまた幸甚、である。  署長室に入って制服に着替え、すぐに決裁の書類に目を通す。ここの署員は真面目で、書類の誤字脱字も少なく、提出期限もしっかり守ってくれる。  幸甚、である。 「またコンビニのカフェですか。お茶くらい煎れますよ」  ノックに答えるまでもなく、交通課の課長である尾道陽子(おのみちようこ)がそんなセリフと共に入ってきた。御歳52歳と聞いているが、若々しい雰囲気に満ちた、いわゆる美魔女と呼ばれる類のようである。類、と称するのも失礼だが、美魔女課長という触れ込みで交通課の活動をPRする広報誌に連載コーナーを設けているのだから、そう呼ぶ他はない。 「署長って、同じお店の同じメニューを同じ時間に頼むタイプでしょう」  ファイルを卓上に並べながら、陽子は少しハスキーな声でそう指摘した。 「ああ、今週の小学校の交通安全教室ですね。承知しました。そういえば、生安課の小杉くんが異動になって、市民会館での公演の役者は足りてますか」 「そうなのよぉ、あの子何でもやってくれたから助かってたんですけど、府中署の木村のブスに取られちゃって、悔しいったら! 」  ああ……と、夏輝は愛想笑いをしてコーヒーを啜った。木村のブスとは、陽子と同期で府中署の交通安全課課長を務める人物の事である。 「助っ人に久紀君は呼べません? めっちゃイケメンだし、ママ達の食いつきを高めるのも、内容を浸透させる大事な要素です」 「弟は組対ですよ。本気で凄んだら子供達が泣きます」 「じゃ、署長は? 署長だって昭和系のイケメンだし、若いし」 「悪い事は言いません、死ぬまで後悔されること請け合いです」  じゃあ……と、陽子は夏輝の耳元で囁いた。どうもこの女課長52歳独身は、若手独身のエリート署長に対して距離を詰める傾向にある。 「それは……ちょっと許可できませんよ」 「この管内って、本当に事故とスリ、詐欺が多いんですよ。せっかく刑事課からも助っ人出してもらっているんですし、小学校教室はともかく、市民会館でやる詐欺防止啓蒙の本公演には、何としても……」  言うなり、陽子は署長デスクに腰を少し掛け、大胆に足を組んだ。そして両手を卓上についてぐいっと顔を寄せてきた。すると、細身の割に豊満な谷間が強調される。ご丁寧に、シャツの第二ボタンまで寛げて。  だが、夏輝は微塵も表情を動かす事なく、ファイルに目を通していた。伊達にあの伏魔殿の如き警察庁で出世街道を歩いて来たわけではない。この程度で動揺などしない。 「南雲梨華の逮捕の時、パーティー会場で内藤隆景にハニートラップ仕掛けて洗いざらい吐かせた謎の美女、あれ、光樹君でしょ」  ピクリと、ほんの微かに夏輝の右眉尻が動いたのを、陽子は見逃さなかった。 「アタシも伊達に、この世界で長生きしてる訳じゃないのよ」  老練な部下ほど面倒な存在はない、と愚痴りそうな己を、夏輝は瞬時に抹殺した。  あの事件…状況証拠が揃っていたものの、代議士を逮捕するだけの決め手に欠けたあの時、兵法通りに弱いところから崩しにかかったのだ。つまり、梨華の本性を知って怯え始めていた隆景(たかかげ)である。光樹を絶世の美女ヤク中コンパニオンに仕立てて別室に連れ込ませ、隆景が持っていた覚せい剤を取り出したところで夏輝と部下が踏み込んで逮捕。後は、それを手札に親達を絞るだけであった。夏輝の執拗な尋問に、内藤景明(あげあき)が落ち、沢山康介は娘を断ち切った。 「何のことか、私にはさっぱり」 「ネタは上がってんだよ! 女の目は誤魔化せねぇ、キリキリ白状してとっとと弟を引きずり出しやがれい! ……次はどこかなぁ、奥多摩かな、小笠原かな」  禍福は糾える縄の如し……念仏のように心の中で唱える夏輝であった。  墓参りに行ったとて、両親の声などすぐには思い出せない。そのくらい、両親との時間は僅かであった。長子であるにも関わらず、である。  まず己を戒め、久紀を守り、光樹を守り、和貴を育てた。弟達の為には強くあらねばならなかった。いつでも暖かい眼差しで背中を押してくれた霧生の祖父母のためにも、自分を律し、厳しい修行を課さねばならなかった。  時に凄烈、時に頑迷、時にクソ真面目と揶揄されながらも、夏輝は己を厳しい方へと追いやり、追い詰め、弟達を守るための武器を増やしていった。  それなのに……ろくに子供達を愛することも気にかけることもしなかった両親が事故死した。旅行に出る暇があるなら和貴や光樹の側にいる時間を作ってやったら良いのに、よりによって海外へ旅行に出かけ、現地で交通事故にあって亡くなった。迷惑をかけるだけかけて、まだ小さな弟達を残して……恋人の亜矢が、そんなやるせない気持ちで鬱屈する夏輝を助け、支えてくれた。 「和貴、光樹はまだか」 「多分久紀兄ちゃんと一緒だよ。今日は笹塚でバイトの日でしょ」  春先に両親が事故死して間も無く、ずっと四兄弟を引き取って一緒に暮らしていた祖父も、梅雨には体調を崩してそのまま亡くなってしまった。その頃、夏輝は大学3年生で、年明けには春休みを利用してハーバード大のゼミに参加する予定になっていた。本格的な留学の足がかりを作る為でもある。  高校2年生の久紀は家計の助けにと1年前からバイトを始め、光樹は久紀が通った中学と同じ公立中に通っていた。  この頃、光樹はいつも久紀の側にいた。相変わらず寡黙で、中2にしては少女のように可憐で線が細く、家のことは勿論、祖父のことも和貴のことも、全て請け負ってくれていた。だがふとした折に、久紀が彼女と出かけてしまった時など、何か思いつめている様子が見られることもあり、亜矢に相談したことがあった。 「光樹くんか……まだね、自分でも分かっていないと思うよ」 「何が」 「あの子は多分、恋愛対象は女の子じゃないかもしれないわね」 「それって、そのう……」  亜矢は膝の上に和貴を乗せて、音読の練習をしていた。小学校に入ってから、和貴の参観は欠かしたことがない。自分たちのような寂しい思いはさせまいと、決めていたのだ。 「とはいえ、中身が女の子ってわけでもないし、弱い子でもない。ただね、ちょっと周りの男の子とは違うなぁって、光樹くん自身も戸惑っている、みたいな」 「さっぱりわからん」 「久紀くんは、今の光樹くんをそのまま受け入れているから、安心して側にいられるのよ。ま、もうすぐ冬休みだし、ちょっと目が離せないよね」  正直なところ、このところの光樹が何を考えているのかがさっぱりわからない。いつも思いつめたような表情をして、和貴にさえあまり笑い掛けなくなってしまっている。淡々と家事をこなし、こうして洗い立ての服をいつでも整えておいてくれるのだが、その心の中が、まるで見えない。 「和貴は音読が上手ね」  こうして亜矢と和貴と三人でいると、ちょっと若めの親子に思える。実際、屈託のない和貴は可愛くて仕方がない。 「来月から、この近くで武蔵澤(むさしざわ)音大でピアノを教えておられる先生の所に通うことにしたんだ。なぁ、和貴」 「その先生凄いんだよ! 駅のアーケードのストリートピアノでね、革命弾いたの」 「ショパンの? 凄いねぇ、っていうか、和貴、よく知ってるね」 「小さい頃からクラシックばかり聞いてるんだよな、和貴は」  和貴の頭をよしよしと撫でて目尻を下げる夏輝の様子は、明日にでもスタンウェイのグランド・ピアノを買い与えそうな溺愛ぶりである。それも、自分の留学を諦めて。 「ピアノを買ってやらなくてはな、今の電子ピアノではなく、大きいのを」  この顔は、やはり自分の事を後回しにしようとしている……。 「ねぇ夏輝……」  と亜矢が言いかけたところに、久紀が帰ってきた。このところ背もぐんと伸び、空手も剣道も有段者レベルまで上達しているその五体は、敏捷な山猫を思わせる。校門を潜ると女子が黄色い声を上げるというその端正な風貌は、夏輝と似ているようでもあるが、夏輝よりは大分跳ねっ返りな性格を想像させる。  すうーっと目尻まで伸びた切れ長の目が、亜矢には少しだけ解れたが、夏輝に対してはまた硬質に光った。 「光樹は。一緒じゃないのか」 「あいつここんとこ店に来てねぇよ。あのさぁ、この前俺に、留学やめるとかナメたこと言ってたの、あいつ聞いてたんじゃねぇのかな」 「ナメたことだと」  咄嗟に亜矢は和貴を抱えて二階へ上がっていった。 「てめぇはいつも、自分が犠牲になりゃ丸く収まると思いやがって。そういう偽善がかえって周りを振り回してんの、わかんねぇか」  大きなスクールバッグを床に落とし、久紀が夏輝を睨みつけた。まだ夏輝の方が背が高いが、その圧は年々強くなってきている。いや、久紀の胆力も体力も、最早大人と変わらない。高校2年生ともなれば、当然だろう。 「てめぇは黙って留学しろ。それとも怖気づいてんのか」 「言葉を慎め」 「一滴も血が繋がらない自分の為に、兄貴が夢を我慢するのは耐えられないんだよ、あいつ。この家で兄弟って体で暮らしてたって、どっかあいつには、まだ遠慮みたいなもんがあるんだ。てめぇがつまんねぇ忖度するから、余計に他人感が強くなるんじゃねぇの? 」  それは何となく解っていた。光樹は毎日大量の家事一切を引き受けてくれている。兄弟のためというより、置いてもらっている代わりにとでも言うように。甘えている自分も悪いのだが、まだ、壁があるとは、感じていた。 「あのクソ親どもは、金だけはしっかり残してんだ、てめぇもちゃんと使え。お互いバイトもしてんだ、生活なら何とでもなる。長男なら、ちゃんと奴らにでけぇ背中見せろや」  ぐうの音も出ずにただ堅く口を引き結ぶ夏輝をそのままに、久紀はさっさと二階の自分の部屋に行ってしまった。  殴り合いにはならなかった事に安堵して、亜矢が降りてきた。 「久紀君、夏輝が大好きなのね」 「はぁ? 」 「夏輝がさ、国家公務員になって、親のいない弟達が肩身の狭い思いをしなくて済むようにって考えている事、ちゃんと解っているのよ、あの子」  でも、とまだ口籠る夏輝の背中を、亜矢が叩いた。 「じゃ、明日また学校で」  それだけ言って、亜矢はさっさと帰っていってしまった。  和貴を寝かせた後になっても、光樹は帰ってこなかった。携帯にかけても一向に繋がらない。久紀の言葉が夏輝の中で繰り返されるうちに、光樹は出ていってしまったのではと、胃の腑を掴まれるような不安にかられ、椅子にかけたままになっていたダウンジャケットを羽織った。 「兄貴」  玄関で靴を履いていると、同じくダウンを羽織った久紀が声をかけてきた。 「俺が行く。和貴が起きちゃったんだ、兄貴、頼む」 「しかし……」 「暫く、光樹の事は任せてもらっていいかな。兄貴だと多分、(こじ)れる」  そう言うなり、夏輝を手で押し戻すようにして久紀は靴を履いた。 「和貴は兄貴じゃないと不安みたいだから、見てやってよ」  奥から夏輝を呼ぶ和貴の声がした。気を取られている一瞬の隙に、久紀は出ていってしまった。  まさか、光樹がこの家を出ようとして、自分が何者かを探そうとして、あの夜の街で自分の体で生きる糧を得ようとして、失敗して大人に騙されて、酷い乱暴を受けて傷だらけになって帰ってくることになろうとは、想像もしなかった。久紀に抱えられて帰ってきたあの夜から、光樹は益々殻に閉じこもってしまった。  それからというもの、光樹は何度も死のうとした。千代田線に飛び込もうとしたし、ビルの屋上に無断で立ち入って通報されたりもした。しかし連絡を受けるのはいつも久紀で、駆けつけるのもいつも久紀だった。  心配した久紀はバイトを休み、当時付き合っていた彼女とも別れ、何も言わずにただ光樹だけに寄り添おうとしていた。  自分が留学を諦めると言った一言が、こんな事を引き起こすだなんて……しかも久紀にしか心を開こうとしない光樹になす術もなく、久紀とも腹を割って話ができず、夏輝は頭を抱えるしかなかった。  それでも夏輝は笑顔で和貴を学校に送り出すこと数日、たまたま午後の講義が休講になったのを良い事に、乖離する心に疲れて昼も食べずに家に辿り着き、玄関に体を投げ出した。すると、泥だらけの久紀のスニーカーがそこにあった。 「あいつ、また学校サボったのか……」  重い体を引きずるようにしてリビングに入ると、脱ぎ散らかされた制服の向こう、ソファで眠っている二人の姿が飛び込んできた。まるで山猫が兎を守るように、兎が山猫の腕の中で安らかに眠るかのように、二人は抱き合って一枚の毛布にくるまっていた。無理に引き剥がせば、どちらかが死んでしまうのではと思うほどに、二人は互いの体にしっかりと腕を巻きつけている。だが、そんな死線の上で二人の心が繋がっていることなど、怒りに震える夏輝には理解できようはずもなかった。 「おまえ……」  どれだけ自分がこの危うい家族を守るために苦労したと思っているんだ……気付いたら、久紀を拳で殴っていた。蹴り飛ばし、殴り飛ばし、めちゃくちゃに暴れていた。光樹が泣き喚いて久紀を殴ろうとする夏輝に取り縋るが、仁王のように怒りに塗れた夏輝が聞く耳を持つはずもなく、光樹の細い体は突き飛ばされて大画面のテレビに背中を打ち付けた。 「痛……」  崩れ落ちて(うずくま)る光樹の(うめ)き声に、夏輝がしまったと動きを止めた。 「兄さん、やめて……久紀兄さんが悪いんじゃない、久紀兄さんは、俺を、俺を綺麗にしてくれただけなんだ……俺がそうしてって、してくれなきゃ死ぬしかないって脅した。だから殴るなら俺を殴って、俺がバカだから、バカ過ぎたから……」  そう言いながら、顔中から血を流す久紀の体に覆いかぶさった。  夏輝は崩折れ、光樹に、いや亡き継母に土下座をした。 「できるわけないだろう……私は美樹子さんに、何て詫びたらいいんだ、あの人に、申し訳が……」  一切の手向かいをせずに殴られていた久紀は、光樹を抱えるようにして立ち上がった 「兄貴が謝ることじゃ無い。もう、そういうのいいよ……」 「そういうの、だと」 「俺と光樹はこうなった。上等だよ、誰が何と言おうと、俺はこいつを絶対一人にしねぇし、二度と誰にも傷つけさせねぇ」  その言葉を聞いた夏輝は、床についていた両手を握りしめて震わせ、咆哮を上げた。 「貴様如き子供に何ができる、勝手な事ばかりほざきおって、ふざけるな! 」  光樹を背中に庇う久紀に、夏輝が立ち上がりざま再度回し蹴りを浴びせると、それを躱した久紀が夏輝の右頬に見事なストレートを見舞った。  背中をカフェテーブルに叩きつけられ、夏輝はそのまま仰向けに転がった。  馬鹿野郎、と顔を覆い、夏輝が嗚咽を漏らした。 「ごめん兄貴……今までずっと重荷ばっかり背負わせてたよな……でも、俺は大丈夫。光樹のことも守れる、和貴の事も俺と光樹で守る。だから兄貴の目標、ちゃんと実現してくれよ。自分の事を、大事にして欲しいんだよ」  口の中に血の味が広がる。光樹が、慌ててティシュペーパーを手に駆け寄り、転がる夏輝の口の端を拭ってくれた。しっかり切れて出血している。 「俺、やっぱり、出て行くね……」  諦めたように目を伏せて呟く光樹の顔は、涙で濡れている。中々笑ってくれないその口元は、震えていた。 「馬鹿を言え、おまえは大事なウチの子だ」  夏輝は光樹を、その胸にしっかりと抱きしめた……。 「弁護士の夢を叶えるために、必要なんだ! 」  田無市民会館の大ホール、特等席に座る夏輝の眼前では、一大スペクタクルオレオレ詐欺予防啓発劇が繰り広げられていた。  尾道陽子の計略に嵌り、まんまと久紀と光樹と和貴と、和貴の親友の京太郎まで駆り出されていた。  孫に扮した和貴が掛け子として陽子演じる祖母に訴える。滔々と、サスペンス劇場の崖のシーンで流れるような扇情的な音楽を、舞台の端で京太郎が情感たっぷりに演奏している。生演奏の舞台って……しかも場内からは啜り泣きが聞こえてくるのだからもう、夏輝の理解の範疇を超えている。  場面が変わると、久紀演じるヤクザ風の詐欺グループのリーダーが、本物以上の迫力で掛け子の和貴を脅し、本気で怯える和貴は、簡単に稼げるバイトの筈だったのにと涙をこぼす。  オレオレ詐欺の手口をこれでもかと披露しつつ、安易な気持ちでバイトに手を出さぬよう、観客の子や孫にも注意喚起を促す内容になっている。  駅のシーンでは、ニセ弁護士に扮した光樹が、デキる女とばかりに美々しいスーツ姿で登場し、観客の溜息を独り占めにしていた。ここでもご丁寧に、詐欺グループが男ばかりとは限らないと、油断をせぬように戒めている。 「一体何皮剥けたんだ、あいつは」  あの日以来、光樹は変わっていった。自分も、色んな言い訳をして踏み出す事に躊躇していた己を恥じ、初志貫徹を旨として動き出した。久紀と光樹の仲は相変わらずだが、二人は今、ああして笑っている。あの頃は、光樹の輝くような笑顔を見る方法がどうしても見つからなかったというのに。  やがてアジトに警察が踏み込み、リーダー格の久紀と光樹が逮捕される。愛人関係を匂わせる愁嘆場で、危うく光樹に迫られキスシーンに至りそうになるのを、久紀が警察官の最後の理性で押し留めた。  ドラマチックな音楽と共に、劇は幕を閉じた。スタンディング・オベーションが沸き起こる啓発劇など、夏輝の警官人生史上初めてのことである。 「ちょっとちょっとぉ、最高だったわよー!! 」  署員が撤収作業に追われている間、陽子は何故か女子更衣室でメイクを落としている光樹を労っていた。 「光樹ぃ、台本最高じゃぁん。流石二丁目の橋多寿美子(はしだすみこ)と呼ばれるだけあるわぁ」 「陽子姐さんの頼みじゃ断れないしさ、下手打てないからね」  実は、その昔光樹が生き方に迷って二丁目をウロウロしていた時、何度も声をかけたのが当時管轄署の少年課にいた陽子であった。自分の性向がよく分からぬ内に酷い毒牙にかかってしまった光樹を、前を向いて歩けるまでそっと支えてくれた恩人でもある。当時から警官にしては派手で破天荒な人物だが、二丁目の人間には頼りにされていたのだった。 「益々色っぽくなっちゃって。ねぇ、彼氏ってどんな人ぉ? 」  久紀の事を知っていると匂わせるように陽子は尋問するが、光樹は既にあの頃の少年では無い、むしろ百戦錬磨の域である。 「秘密ぅ」  衣装を脱いで上半身の肌を大胆に見せ付けながら、大きな鏡の中で背後に立つ陽子に光樹がウインクをした。 「姐さんも早くいい男捕まえなよ。何ならウチの夏輝丈は? 」 「ハイスペックすぎてつまんなぁい」 「やっだあ、超わかるぅ」  陽子がつつっと、光樹の均整のとれた華奢な背中に指を這わせた。 「魔性の艶肌よねぇ……久紀はこういうお肌が好きなのかしらぁ」  刹那、振り向いた光樹が陽子の指を掴んで鏡に押し付け、挑発するように顔を近づけた。壮絶な美貌が微かに苛立っている。 「熟女が欲求不満丸出しで、下品じゃね? 」 「ああ? 警察界の至宝をゲイ能界に引き摺り込んだこの極悪人がっ!  アタシの目は節穴じゃないんだよ」  ぐいっと、光樹が片手で陽子の顎を掴んで揺さぶった。 「人聞きの悪いことを言いふらすお口なら、砕いちゃおっか」  一瞬の龍虎の睨み合いの後、陽子が光樹の耳を引き寄せた。 「……バカね、監察の耳にでも入ったら久紀も署長も破滅よ。無警戒にイチャイチャしくさって、ウチの会社はお堅くて古いんだから、気をつけなさい」  真摯に小声でそう言われ、光樹は思わず真顔に戻って息を呑んだ。  背後では田無署のスタッフが行き来している。慌てて光樹は陽子から体を離した。ずっと握られていた顎を摩りつつ、陽子は大人しく項垂れる光樹のスネを何度も蹴飛ばした。 「姐さん、ごめん、ごめんてば……そんなにイチャイチャしてた? 」 「あれじゃ私じゃなくても解るってもんだわ。久紀も久紀だけど」 「だってぇ……」  光樹が一瞬素に戻ったかのように俯き、頰を赤らめて指で唇をなぞった。 「だって……カッコいいんだもん」  少女のような純朴な顔で告白する光樹の美しさに、陽子は一瞬言葉を失って魅入ってしまった。と、廊下で派手に物を倒した音がして、陽子は正気に戻って声を張り上げた。 「当たり前よ、久紀はウチの会社の女子全員の至宝とも言うべきイケメンよ! てか、今日のヤクザ役ヤッバいわぁ、鼻血吹いて昇天するとこだったわよ」  美少女はすぐに、百戦錬磨のイタズラな美青年の顔に戻った。 「やだぁ、まんま欲求不満の熟女のセリフじゃーん」 「ふん、発情期のメス猫に言われたかないわっ 」 「にゃーん」  陽子と光樹が話に花を咲かせて? いると、メイクを落とした久紀と、仏頂面の夏輝が顔を出した。 「陽子さん、お疲れっした。じゃ、お先に」 「ええ、これから戻るの? 飲みに行こうよぉ、久紀と飲みたいぃ。直帰で、ってオタクのハゲ課長に言っといたじゃーん」 「ヤクが出たって、地域課から。事務所にガサ入れるかもしれないから」  ちらっと光樹の方に視線を走らせ、一瞬だけ目で何かを伝え合うと、久紀はさっさと出て行ってしまった。 「尾道さん、啓発劇なのに随分と大スペクタクルに仕上げていただきまして。その上ウチの弟達を無断使用して下さって、かなり心外なのですが」 「大成功だったんだから良いじゃありませんかぁ! これ以上の効果はありませんてばぁ。もう、署長ったら、怒っちゃイヤん」  ケラケラと笑いながら、陽子は退散とばかりに出て行ってしまった。 「そんな仏頂面しないの、兄さん。男前が台無しだよ」 「すまなかったな、無理を言って。まさか尾道さんがおまえを知ってて直接連絡を取るだなんて……まさか、脅迫でもされたのか? 」 「ハハ、姐さんはそんな人じゃ無いよ。それに楽しかったってば! まぁ、全員出ることになるとは思わなかったけど」 「全員どころか、京太郎くんまで……政さんになんて詫びようか」 「あ、政さんなら、チラシ作ってくれたよ。流石だよねぇ、ちょちょっとパソコンであっという間に帝国劇場でやりそうなチラシ作ってくれたんだから」  だからこんなに客が集まったのか……夏輝は眉間を指で揉んだ。 「今日はもう上がりでしょ、和貴達連れてゴハン行こうよ」 「そうだなぁ。その後は政さんのところに詫びに伺って、飲むか」  きゃあ! と歓声をあげて、光樹が夏輝の腕に両腕を巻きつけた。 「兄さん、だーい好き」 「バ、バカ言うな……」  デレデレと相好を崩しながら、まんざらでもなさそうにニヤける夏輝であった。  これぞ、幸甚、である。    
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