第五夜

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第五夜

 また明日、と。  お別れのことばもそこそこに、史織を家まで送り届けた古川はさっさと車を発進させ、立ち去った。運転中からちょくちょく時計を確認していたから、このあと予定があるのだろう。きっと女性関係だ──と、史織は玄関前に立ち尽くしながらおもった。  よそのチャンネルでも動画編集スタッフを掛け持ちしていると聞いた。そちらは美容系というからきっと見目の良い子にも困らないに違いない。べつに、いい。はなから期待もしていない。それよりも──。 「う。……」  門前まで来るとかならず起こる拒絶反応。史織の身体は、いつだって真嶋家を拒絶している。いい加減独り立ちもしたいが母親がそれをゆるさない。女の子で一人っ子。子どもに執着するような親ではないが、父親が亡くなってからその規律はますます厳しくなったようにおもう。  悶々と渦巻く雑音を胸に抱えたまま、史織はゆっくりと玄関扉を開けた。 「お帰りなさい、史織さん」  鹿島由紀子。  史織の母である。鹿島は母の旧姓で、父親の姓をそのまま名乗る史織とは姓がちがう。年とともに枯れ枝のように痩せ細る腕が、長袖のカーディガン越しにでも透けて見える。むかしは綺麗だった母も、近ごろは妙に痩せこけてしまって、美人の面影はない。 「ただいま帰りました」  顔を見ないように、足早に二階の部屋へ。  これが史織の日常だった。 「史織さん」  階下で由紀子が呼ぶ。  弱々しく返事をした。 「お金を置いておきます。これで何か食べなさい。私は伸二さんと出かけますから」  伸二さん──向井伸二。使用人。  父親が八年前に自殺してから雇った男だ。当初から、ふたりの仲が良いとは感じていた。この歳にもなればイヤでもわかる。彼らはデキている。しかし史織のなかで、そのことは既に関心の外に出てしまっている。  返事もせずに、自室に置かれたピアノの前に座る。部屋の外から史織に呼びかける向井の声がした。 「ケーキを買ってくるからね。それと、帰ったら大事な話があるから……」 「――――」  話したくない。  けれど、彼はこちらに好かれたいからか、新たな父親として認めさせたいのか、こちらが返事をしないと動かないところがある。史織は感情を押し殺して、 「いってらっしゃい」  とつぶやいた。  まもなく部屋の外で、向井が階段を降りる音がした。由紀子の“女”の声。靴を履く音。玄関扉が開く音──。 「…………」  ふたりが家を出たことを確認して、史織はようやく部屋から出た。階下に降り、ダイニングテーブルに置かれた金を憎々しげに眺めてから、リビングへ。  昔から、この気取った洋館が好きじゃなかった。純和風の日本家屋に憧れていた。それについては父親の影響が大きい。彼は日本庭園の雑誌をよく買ってきていて、それをいっしょに読んだものだった。とはいえ日本家屋ではピアノなんて置けないため、過ぎた夢なのだけれど。 「あ」  リビングのソファーに目が留まる。無造作に、婚姻届が置かれていた。  鹿島由紀子と向井伸二の名が書かれている。結婚まで決めたのか──と、少々冷めた目で婚姻届を見る。 「まるで真嶋なんて無かったみたい。……」  口をついで出た。  いまさら、どうでもいい。しかし史織はむかしからお父さんッ子であったから、その痕跡がいずれこの家からすべて消えてしまうのかとおもうと、どうしようもなく哀しくなった。  婚姻届をもとの位置に戻そうとして、気が付いた。下に置かれた薄い青色の大判封筒。その封筒に『遺伝子情報解析センター』と書かれていることに。  ふいに。  チリリと胸に雑音が走った。理由はわからないが、この封筒の中身を見てはいけない──そんな焦燥感に襲われた。しかし同時に、見てしまえと強く命令する衝動をも感じた。史織は一分ほどためらってから、ふるえる手で封筒を開く。中には数枚の用紙が入っていた。  ダメ。見ては。  きっと後悔する。  おとうさん。おとうさん。  史織の心臓が早鐘を打つ。しかし意思に反して、身体は勝手に封筒から紙を取り出していた。いやにスローな世界のなか、視線がある一文に釘付けとなる。 【父(向井伸二)は子(真嶋史織)の生物学的父親として排除されません】 「…………」  ばさりと手から鑑定結果の紙が落ちる。  その一文を見た瞬間から、史織の瞳は何物も映さなくなってしまった。ただ、ただ、得も言われぬ恐怖から逃れるべく、まるで地上で溺れていると言わんばかりにバタつきながら家を飛び出した。  外は暗い。  スマホを忘れたことに気が付いた。けれど戻りたくなかった。  まだ電車はあろうが、行き場はない。史織はいつだって──独りだった。むかしは愛河裕子の家に逃げ込んだこともあったけれど、近ごろはあの家すらも居心地わるく感じる。あのお屋敷には行きたくないな──とおもう自分がいることにおどろいた。  唯一頼れる人といえば、岩渕竹生。史織の家庭事情もよく知っている、月に数度だけ会える兄のようなやさしい人。だがそれもいまはスマホがないため連絡の取りようもない。  こんなとき、史織は痛感する。  いろんなことを経験して、人と交流して、大人になったようなつもりでいたけれど、けっきょくあの頃からなにひとつ変わっちゃいないのだ。 「――――」  とにかく歩こう。  史織は、あてもなく、ただ足が赴くままに歩みをすすめた。行き着く先がどんなに危険な場所であろうと、いまより地獄になることはないとおもった。  ──歩いて、歩いて、三十分。  周囲の闇が少しずつネオンに照らされるようになった頃、ポンとおもむろに肩を叩かれた。 「!」  跳ねるようにふり返る。  そこにいたのは──古賀一花だった。  ────。 「どうして!?」  史織は開口一番さけんだ。  思いもよらぬ顔に会ったことで混乱した。が、一花の顔を見るなりふしぎと胸の内が温まり、つい今しがたまで脳内に鳴り響いていた雑音が、ピタリとやんだ。どうなってもいい──と自棄糞に歩きまわっていた史織だったが、やはり不安だったらしい。安心感に満たされて目頭が熱くなった。 「イッカちゃん……こんなところで何を」 「アハ」  一花はわらって、おもむろに史織の手を握る。 「なにって、迎えに来たンよ」 「迎えに──?」 「そオ。だってあんまりうるさいんだもん、龍さんの車飛び出してきちゃった」  と言うや、くるりと方向を変えて路地を抜けてゆく。勝手知ったるといった一花の足どりに、この辺りに住まいがあるのかと史織が尋ねた。一花は、ウンと跳ねるようにうなずいて腹をさする。 「はーお腹いっぱい。ちっと食いすぎちゃった」 「ご飯、食べてたの?」 「そ。龍さんたちと中華! アハ、龍さんって今日センセの家で会ったいかつい刑事さんね。あの人、見てくれはああだけどやさしいよ。史織ちゃんもなんか困ったら頼るといいよ」 「ね……どうしてイッカちゃんは、私がここにいることを知っていたの? 私、じぶんでもどこを歩いているのか分かっていなかったのに」 「ウフ、お父さんが頭下げにきたの。いまが大変なもんで、なんとかしてくれませんかってさーア。中華屋から車に乗ってずうっとついてくんだ。あんまり頼まれちゃったら断れなくって。あたし、お人好しだからねーっ」  そのまま案内されたの、と。  一花はなんでもないことのように言うけれど、史織にはいまいち彼女の言う意味が分からなかった。お父さん? 案内? なんとかしてくれって。でも、史織のことをと呼ぶのは──。  イッカちゃん、と呼ぶ声がふるえた。 「……私のお父さんのこと、知ってるの?」 「え? べつに知らなかったけど、でもだって向こうがそう言うんだもん」  史織の父です、って。  一花はにっこりわらった。
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