第二夜

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第二夜

 姿見の前でひらりと一ターン。  おろしたてのフォーマルワンピースを身にまとい、こっくりと深い赤のフェルトカンカン帽をかぶった一花は、バッグを手にとって上機嫌で部屋を出た。歩くたびにぎしりと鳴る板張り廊下も長年住んでいればまったく気にならない。台所にむかって「いってきまアす」と声をあげると、水音に混じって「いってらっしゃい」という声が返ってきた。唯一の同居人、祖母の声である。  履きなれぬパンプスに足を突っ込んで玄関扉を出、つづくアルミの門扉から外に出る。 「陽気な朝だねエ。めかしこんで、パーティーかい」  呼び止められた。  一花は声のした方へくるりと顔を向ける。閑静な住宅街のなか、ここいらの風景に似合わぬ男が車に身をあずけて立っていた。男はサングラスの奥の瞳をまっすぐこちらに向けて、さぐるような笑みを浮かべている。  一瞥したかぎり見覚えはない。誰なのか聞いてみる。 「あんだテメー」  まちがえた。  今日の服装は大学の入学式に合わせて、清楚なお嬢様をイメージしたものなのに、いつもの癖でそぐわぬことばが出てしまった。眠たそうなたれ目はそのままに、一花はずずいと男に近づいた。 「だアれ。あたしのおっかけ?」 「まあ──ある種のファンではあるかな」 「フーン……あっいけない。知らない人と話しちゃいけないって、将臣に怒られる」 「知らない仲じゃねエとおもうよ」  と、男はわずかに首を伸ばして一花に顔を寄せた。  そう言われていま一度目の前の男を観察する。一花の記憶力が壊滅的なのは自他ともに認めるところである。はるか昔に会ったことがあるなら覚えているわけもないし、つい最近会ったとしても、こうして顔を見て思い出せないのならどのみちたいした関わりもなかったのだろうと思う。  いつまで経っても思い出すそぶりを見せない一花に、これまで飄々とわらっていた男が「じゃあヒント」と苦笑した。 「人形島の事件──」  あっ。  と、一花が目を見開いた。  その単語は忘れたくとも忘れられぬ。  つい一か月ほど前のこと、恭太郎と将臣と三人で卒業旅行と銘打って赴いたとある離島。そこで三人は不運にも凄惨な殺人事件に巻き込まれた。その事件の関係者のなかで、一花ら三人のほかにたまたま休暇だった森谷、それからもうふたりほどおなじ船に乗り合わせた乗客がいたことを思い出したのである。 「いたねーッ。いた、いたそういえば。あんだっけ、なんか書いてる人でしょ」 「ああ。しがない雑誌記者だ」 「そんな人がこんな朝っぱらからあたしになんの用?」 「話がしたくて」  口角があがる。  けれどサングラスの奥の瞳に笑みはない。バッグのなかに入った携帯電話がふるえる気配がする。きっと恭太郎だ。一花は「フーン」と鼻をならしながらバッグを覗き込んだ。 「でもごめんなさいよ。今日はあたし、これから大学の入学式だから」 「へえ。どこ?」 「白泉」 「あったまいいじゃない。見かけによらんね」 「それってそーとー失礼じゃない?」  と、一花はぎろりと男をねめつける。  こいつちょっときらいだ、と心が傾く。男は男で、こちらの機嫌を損ねたことに気が付いたのか「わるいわるい」と軽く手を振って胸元から名刺を取り出した。 「ま、怪しい者じゃないから。つぎ会ったときは話聞かせてくれよ」 「あんたに話すことってなんもないとおもうんだけど……スリーサイズとか?」 「そんなもん聞きたかァねえよ。あ、いやいや。まあ君が話すことじゃないとおもっても、こっちが聞きたいこともあるってもんだろ。まあそういうことだ」  男の手がぐいと名刺を押し付けてきた。  仕方なくそれを受け取ったところで、「オイ」という声が横から聞こえた。同時に声の方へ顔を向けると見慣れた顔がふたつ並んでいる。恭太郎と将臣だ。  彼らがこちらに近づくのを見るや、 「おっと藤宮のボンか。こいつァ分がわりい……」  といって男は早々に車へ乗り込んだ。  運転席の窓を開けて「それじゃあまた」と一花に手を振ると、閑静な住宅街のなかにエンジン音を轟かせてさっそうと走り去っていった。みるみるうちに遠ざかるそれをぼうっと眺めていると、まもなくそばに寄ってきた恭太郎にふたたび「オイ」と詰められると頭をはたかれた。 「電話出ろ!」 「聞こえたでしょ。あたし絡まれてて忙しかったの」 「あの人……このあいだのルポライターだろ。一花に何の用だって?」  将臣が、車が走り去ったあとの道をぼんやり眺める。  『脳の記憶フォルダ』と呼ばれる大脳皮質が著しく仕事しない一花とちがって、彼の脳みそは短期から長期に至るまで、一度保存されたら二度と出ていくことはない。大学生となったいまでもおぼろげに胎内記憶が残っているというのだから、もはや人ではない、と一花はおもっている。  そんなんだから、将臣が一度顔を合わせた相手を覚えていることに対しても驚きはない。 「なんか聞きたかったんだって」 「なんかって」 「んー……スリーサイズとか」 「聞きたかねえって言われてたじゃんか、嘘つくな」  と、恭太郎がにやにやわらう。  上質なスーツに身を包み、めずらしくパリッと整えられた髪の毛によって、いつもの様相──定食屋の千枝子曰く『ヒモ男』──は見る影もない。となりに立つ将臣もおなじくスーツであるが、彼の場合は普段着からジャケットを着用することがままあるので、それほど新鮮味はない。  ともあれ、いまの会話はいったいどこから聞こえていたのやら。きっと一部始終の会話は聞いたに違いない。一花はプッと頬をふくらませる。 「こんなことならあのまま車で送ってってもらえやァよかった。恭ちゃんと将臣なんか置いてけぼって」 「いいから早く行こう。遅刻するぞ」  将臣はくるりと踵をかえして歩き出す。  迷いなく歩みをすすめるその足は、みごとに大学と正反対の方角へと向けられた。恭太郎がその首根っこを即座につかむ。 「感謝しろよ将臣。初日から迷子のせいで大遅刻──なんて未来を迎えないために、この僕が、わざわざ、おまえの家に足を運んでやったんだからなッ」 「恩着せがましいな。大学までの道なら地図を見てインプット済みだ」 「じゃあその地図は間違っているッ。大学は、こっちだ!」  ずんずんと進む恭太郎。  首をひねって周囲の景色を眺める将臣。  ふたりの親友をうしろから眺める一花は、 「あたしの知り合いって変なのばっか」  と自分を大棚にあげて肩をすくめた。  ※  白泉大学の敷地には、新入生向けに『記念講堂へ』と書かれた案内板が随所に立てられている。中学、高校では式典といったらたいてい体育館だが、大学ともなれば大講堂になるらしい。記念講堂に至るまでの道程には気になる建物も散見された。が、ともに入学式へ参列するであろう新入生たちの波に逆らう暇もなく、一花たち三人組は無事、記念講堂へとたどりついた。  講堂のなかは複数の学部学科によって区分けがなされている。  三人はいずれも文学部文化史学科。在籍する教授陣の専門分野は、日本、英米の文化史はもちろん、文化のなかでも特殊とされる地方民俗学など、門戸が広い。僧職免許取得を目指す将臣がこちらの学科をえらんだのも、文化と宗教の関係性を研究する教授がいるためだ。  無論、将臣についてきただけの一花と恭太郎に文化史への熱はそうないが、唯一気になる学問として『民俗学』を挙げた。  民俗学で研究される民間伝承には、現代社会ではろくに見向きもされない怪奇なうわさも存在する。これまで、自分たちの体質ゆえ、説明のつかないことを多く経験してきたふたりにとっては、この学問を学ぶことでいま一度体質を受け入れ、理解するのに良い機会かもしれない。──と、目的を持たぬふたりに理由付けを求められた将臣が、後付けで加えた言い訳である。  とかく三人は、講堂に入ってから十分ほどかけて、これから自身らが所属することとなる文化史学科の席へと腰を落ち着けた。
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