第一夜

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第一夜

 白黒の艶やかな鍵盤上をなめらかに踊る指。  八十八鍵が縦横無尽に叩かれて、二百三十本の弦をふるわせる。一音が連なり、やがては奏者の内に秘める葛藤を表すかの如き激情のメロディが生まれる──。  『エチュード10-4 - ショパン』  譜読みも演奏も高難易度とされる、この一曲。  映像のなかの少女は、瞳を閉じて、一見するといとも簡単に──この旋律を弾く。クラシックはおろか、ピアノにすらそうそう縁のない者でさえ、息つく間もなく繰り出される音の暴力に圧倒され、気が付けば瞬きをも忘れてしまう。  手の甲に浮かび上がる筋。  鍵を叩く固い指先。  対照的にゆるい手首。  ピアノは──芸術である。  武骨一辺倒で生きてきた警視庁捜査一課沢井龍之介警部補は、下唇を尖らせて、そんな当たり前の感想を胸に抱きつつ、耳からイヤホンを取り外した。スマートフォンの画面ではなおも指がするすると鍵盤上を走り回る映像がつづく。  しかし沢井はもう腹いっぱいになった気分だった。  いや、胸がいっぱいと言うべきか。……目の前に出された生姜焼き定食を前に、人知れずため息がこぼれる。 「すごいやろ」  と、対面に座る男がにんまりと口角をあげた。  こちらの反応が想像以上だったか、大満足といった表情である。 「すげえ。これで、何歳だって?」 「これは彼女がまだ中一やったときの映像や。いまはもうちょっといって……たぶん二十そこそこになったんちゃうかな」 「中一!」  沢井の声がひっくり返る。  いや、上体も半ばひっくり返りかけて、背後の席の背もたれにぶつかった。昼営業も終了間近で、ほかの客がいないことが幸いした。 「ピアノってけっこう女性が優雅に弾くイメージやんか。でも実際、むかしの名の知れたピアニストは男ばっかやろ。ショパンしかり、ベートーヴェンしかり。やっぱり鍵盤叩く力とかもあるし、意外と体力勝負の職業らしいで」 「へえ──」  改めて、映像に目を落とす。  画面のなかの少女は演奏を終えたか、ゆっくりと席を立って、客席に向かってぺこりとお辞儀をした。その顔は緊張と安堵で複雑な表情ではあったが、盛大な拍手を浴びてようやく安堵が上回ったのだろう。上気した頬を控えめに持ち上げて、にっこりとわらった。  天才ピアニスト、真嶋史織。  近ごろ、突如動画配信サイトに現れた新星として、巷で噂となっている。彼女は『Shiori channel』というチャンネルを開設し、週に一本のペースで様々なクラシック曲のピアノ演奏動画を投稿。  いま見た映像もチャンネル動画のひとつ、昔の映像が観たいという視聴者の声に応えた形で、わざわざ当時のピアノ演奏映像をデータ化してアップしたものだという。投稿主コメントには ”こうして聴くといろんな部分が拙いですね。恥ずかしい”  という謙遜コメントつき。  『ネコふんじゃった』すら弾けない沢井からすれば、いまの演奏のどこに拙い部分があったのかも疑問だが、当人はいろんな部分が気に食わないのだろう。コメントの最後には”期間限定公開のためいずれ消します”と書かれていた。  で、と沢井はようやく気を取り直し、割りばしをパキッと割り開く。 「この真嶋史織がどうしたって」 「いやさ。この子、二年前にチャンネル開設してからずうっと動画投稿しつづけて、ちょっと前にとうとうチャンネル登録者数百万人突破してん」 「へえ」 「感動うっすいなァ!」 「いや、俺はそういう、チャンネル登録だのなんだのって文化はいまいち馴染みがねえんだよ。そんなすげえことなんか」 「すごいに決まっとるやろッ。ほんでもってオレ、わりとこのチャンネルの古参勢でな。登録者数一万人なる前から登録しててんで。すごいやろ。もうなんや、オレが育てたといっても過言ではないっちゅう感じがしてな」 「過言すぎるだろ」  といって、沢井は味噌汁を飲み干した。  昨今流行りに流行っている動画コンテンツについて、沢井はいまいち明るくない。それはそうだ。日々の仕事に追われて、休日があれば身体を鍛える自分に、そんなものをたしなむ時間がどこにある。目の前に座るこの男だって、自分とおなじ生活スタイルだろうに──と、沢井はぎろりと男を見つめた。  森谷茂樹(もりやしげき)。  沢井とおなじく捜査一課所属の警部補である。実家が関西なのか、警視庁所属となってずいぶん経つというのに未だ嘘くさい関西弁が抜けない。沢井はつい数年前まで生活安全部少年刑事課に所属していたため、捜査一課歴でいえば森谷の方が上だが、おなじ階級ということもあっていまではこうして昼食をとる仲になった。  定食屋『ざくろ』。  ここも昔は馴染みだったが、捜査一課に異動してからは足が遠のいていた。今日はふいに思い立って森谷を誘い、立ち寄ったのである。  それはそれとして、森谷の話は止まらない。 「おまけに、百万人を記念してっちゅーことで、単独コンサートまで。チケットは抽選やったんやけどもう嬉しくてうれしくて即応募や」 「で、結果は?」 「見事当選」 「はあ。お前ェがそんなクラシック好きだったとはねェ」 「この子のピアノがええねん。何よりかわいいしな」 「結局そこかよ」  呆れて顔が渋くなる。  しかしこちらの反応など気にも留めず、満足げに森谷が腹を叩いた。 「にしてもほんま、ここの肉じゃがうまいわ。おばちゃん、ここ創業何年?」  と、厨房の方へ首を伸ばす。  老齢の女将──兵頭千枝子はにこにこわらって、急須片手に近づいてきた。 「七十五年! うちの人で三代目なの」 「へえ。もうそんななるんかァ、龍クンってどんくらい通ってはんの?」 「俺が少年刑事課いってたときだから……六年前から一、二年くらいかな。最近はご無沙汰だった」 「そうねえ。ほら、一本いったら歓楽街でしょ。あの頃はそこいらでふらふらしてる少年少女をよく取り締まってくれてねェ」 「そんなん補導員の仕事やん」 「聞き込みがてら、声かけしてただけだ。ませきったガキばっかでよ。……でもまあそのなかで、どうもそぐわねえガキがいたんだよ。当時中学生の」  なあ、と沢井は女将に草臥れた笑みを向けた。  彼女はそうそう、と何度もうなずく。 「でしょ。あの子はねえ、べつに悪ぶりたくってこのあたり歩いていたわけじゃないからね。ただなーんとなく、おうちが嫌だっていうだけで」 「よくここに連れてきて飯食わせてやったもんだぁな」 「そうそう、一番安いやつをね」 「言うない。そういうことを」 「そのたんび、よく迎えに来た恭くんといっしょに帰っていってねえ。そういえば、あれからしばらく見てないわぁ。どうしてるだろあの子たち……」 「…………え?」  森谷が、妙な顔をしている。  その目は驚愕と好奇心の色をちらちらと湛えて、沢井に向けられた。  なんだよ、と沢井がたじろぐ。 「”イッカ”と”恭くん”って言うた?」 「ああ。──あれからもう数年だ、いまごろ高校も卒業したかもなぁ。一花と恭太郎」 「一花と恭太郎⁉」 「だからなんだよさっきから」 「古賀一花(こがいちか)藤宮恭太郎(ふじみやきょうたろう)?」 「…………」 「…………」  沢井と森谷はしばし見つめ合う。  やがて沈黙に耐えられなくなった森谷が、口火を切った。 「あれ……ちがう?」 「いや違わねえ。なんで知ってる」 「いやいや。ほら、その──」  と、森谷が奥歯にものが挟まったような言い方で口ごもった。そのときである。 「呼んだ~~~~~~?」  という、抜けた声とともに摺りガラスの戸が開かれた。
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