予習事件

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 しばらくすると、こうばしいコーヒーの香りが教室を包んだ。先生はいらないプリントを4つ折りにして、コースター代わりに置くとコーヒーの注がれた紙コップを置いた。 「コーヒー飲めるか? 飲めなくても他の飲み物なんてないからな」  正直、当時の私はコーヒーには砂糖とミルクをたっぷり入れないと飲めなかったけど、なんだか飲まないと家に帰してもらえないような気がして、ふうふうと冷ましながら、酸味の強いコーヒーを必死で飲み干した。飲み終わった頃には、もう涙は乾いていた。 「じゃあなに、国語だけは勉強しなくてもできたわけ。へえ」  先生が物珍しげに驚いてみせた。 「なんか知らないですけど、スラスラと言葉が頭に入ってくるんです。本も一度読めばだいたい覚えちゃいます」 「スラスラか。いるんだよな、たまに。その教科だけ天才的にできるってやつが」 「先生も国語が得意だったんですか」   私は知っていた。先生が旧帝大の院卒であることを。きっと驚くほど頭が良かったに違いない。 「俺か? 俺は勉強に苦労した覚えがないんだよ……英語以外はね。まあでも一番好きだったのかな、国語がさ。じゃなきゃ続かないよ、こんな仕事」 「先生授業してるとき、生き生きしてます。私、先生の授業が一番楽しくて…」 (好きです)  と言いそうになってあわててとどめた。これじゃまるで愛の告白みたいじゃないかと気づいたからだ。 「桜井、俺の授業、いっつも真剣に聞いてるもんな」  授業中、先生をずっと目で追っていたことがバレたことが、ものすごく恥ずかしかった。顔が熱くて先生の顔をまともに見られなかった。 「その得意なところを活かして、他の生徒に勉強教えてやれよ、聞かれたら答えればいい。気楽にな」  先生は別れ際に、棚から三冊の本を出して貸してくれた。自分が高校の時に使っていた国語便覧とコンパクトな古語辞典と受験用の参考書だった。 「そのうち学校の授業じゃ物足りなくなって、すぐに必要になるだろ。受験終わるまで貸してやるよ」 「いいんですか?」 「その代わり、ずっと国語が得意で仕方ないって思ったら、国語に携わる仕事につけよ」 「は……はい」  今となって考えてみると、コーヒーと貸してくれた本は先生なりの最大の慰めだったのかもしれない。死にそうな顔をした憐れな生徒にきっと同情したのだ。  あの時のコーヒーはとんでもなく苦かったけれど、その香りだけは今でも忘れられない。
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