先生わたしを振ってください

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「海だあ」  叫ばずにはいられないほど、目に映るすべてが海だった。高速を降りて海岸沿いの県道に出ると、すぐに濃く青い地平線が姿をあらわした。小さな漁港を通り抜けると目的地はもうすぐだった。  さすがに時期が早くて海水浴場はまだやっていなかったので、近くの海岸公園に車を停めた。近くにキャンプ場があるらしく家族連れで賑やかだった。湿った潮の香りが風とともに通り抜けていく。 「砂浜まで歩くか」 「はい」  キャンプ場がある松林を抜けると穏やかな潮騒が聞こえてきた。視界が開けて紺碧の日本海が広がる。  弓なりに続いた浜辺の奥で子どもたちが砂山を作って遊んでいた。甲高いはしゃいだ声がここまで届く。砂浜の上を歩くと砂が舞い上がってすぐ靴に砂が入ってきた。私はパンプスを脱いで裸足になった。 「先生も靴脱がないと、海に入れませんよ」 「入らないからいいよ」 「つまんないの」  私は先生を置いて海へと向かった。濡れないようスカートを掴んで持ったまま寄せてくる白い波へ入っていく。波音とともに足の裏の砂が動いてくすぐったい。砂の間から白くて透き通った貝殻を見つけた。夢中になってしばらく宝探しをした。  先生は砂浜と松林の境界にある階段状のコンクリートに座っていた。私は思わず童心にかえって手を振った。白シャツに細身のベージュのチノパン姿で手を振る彼は、校長先生にはとても見えなかった。 「満足したか」 「……はい」  私は先生の隣に腰をおとす。この場所は風が吹き抜けて気持ちいい。 「先生、海に来るのは何年ぶりですか」 「小学校の遠足で潮干狩りに行ったな。それ以来かな」  家が商売していたから、遠出をすることはほとんどなかったという。 「じゃあ、海で泳いだことないんですか?」 「そういえばないな。こんな青い海は初めてだよ」  先生は目を細めて海を眺めている。私は自分が褒められた気になって質問を重ねた。 「先生は? 行きたいところないんですか 」 「行きたいところ? 特にないな」 「じゃあ、したいことは?」 「質問ばっかりだな」 「だって、今日は質問してもいい日なんですよね」  私はなるべく明るく言った。 「じゃあ、お前のしたいことは?」 「私はしたいことありますよ。仕事の話ですけど」  私はずっと考えていたことを先生に告げた。橘さんや、去年いた不登校の女子、クラスになじめない子達の手助けがしたいと。まだ具体的にどうしたらいいのかいかは分からないけれど、いつからかその思いは大きくなっていた。 「学校に来れなくて、困っている子達を助けたいなって思ってるんです」  先生は海の方を向いたまま答えた。 「桜井には向いてるかもしれない」 「……はい」 「知ってるか。人は海が満ち潮の時に生まれ、引き潮の時に死ぬそうだ。海にとっては一瞬だよ、人の一生なんて」  先生の言葉は直接心に沁みてくる。 「人生は短い。やりたいことやれよ」  先生がこのまま陽が沈みゆく海とともに溶けてしまいそうに儚く感じた。 「先生は? 先生がやりたいことってなんですか……あ、校長として学校を運営していくことっていうのはナシですよ」 「それ以外に俺に何があると思う?」  先生は、ようやく振り向いて笑ってくれた。 「仕事じゃなくて、プライベートは?」 「......ひとつだけ、したいことがある」 (それは何ですか?)  聞きたいけど聞けなかった。先生じゃない、槙さんのしたいことだと分かっていたから。先生のことは何でも知ってるのに、槙という男の人について、私は何も知らなかった。 「俺も、波打ち際まで行こうかな」  思いついたように革靴を脱いで、ズボンの裾を折り上げている。そのまま迷いなく海に向かって歩いていった。  白波が先生の足元を染めていった。まくった裾よりもずっと深い水深まで行ってしまうからだ。波を蹴ったり、海の底を覗いたりしている。 (先生も、子どもに戻ったみたい)  ふと、先生が太陽の方へと顔を向け動きを止めた。傾きかけた太陽が水面(みなも)にきらきらと輝き、先生のシルエットを濃く映しだした。  私はこの瞬間を忘れないでおこうと心に誓った。
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