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「ちょっとおいで」
手を引かれて砂浜を抜け、靴の置いてある階段にふたたび座った。ぎゅっと握られた手の平から、先生の熱が伝わってくる。
海辺は夜の闇に溶け始めていた。波音だけが包む寂しげな海も、先生が隣にいるだけで心穏やかな景色に変わる。
「……5年前、お前が母校で教師になったと聞いて、会うのを楽しみにしていたんだ」
「先生がっかりしたでしょう。こんなに頼りない教師で」
「嬉しかったよ。俺の言葉で教師になったと聞いて。力になりたいと最初は思った。でもそれは、俺の思い上がりだった」
先生は私の方を向いて小さく笑った。
「柚木先生に宣言されたよ。桜井先生を悲しませたら、私は絶対に許しませんって」
柚木先生なんてことを。
「あんなに明るい人だったんだな。中1Cの生徒達とも和解できたと喜んでた……柚木先生を救ったのは誰だ?」
少しは柚木先生の力になれたみたい。先生の言葉に心が温かくなる。
「救われたのは柚木先生だけじゃない」
「え?」
「俺だってそうだ」
どきりと心臓が跳ねる。
「桜井と話すときだけ、本当の自分に戻れた。一緒にいるだけで張り詰めていたものが緩むんだ」
私の方こそ、どれだけ先生に救われたことだろう。
「4月からずっと、校長として気負いすぎていたのかもしれない。柚木先生達がそれを教えてくれた」
私は小さく首を振った。
「……先生は理想の校長先生です。みんな先生の信者になっていくんですから」
「なんだそれ」
ふっと笑って目線を落とす。先生はすらりとした指先で私の手の甲をやさしくなぞり、ふたたび大きく包み込んだ。
「俺たち何日話さなかったか、覚えてるか?」
「えっと、二週間くらいですか」急に聞かれると戸惑う。
「16日だよ。その間どれだけつらかったか。だから昨日我慢できなくて、無理矢理呼び出したんだ」
「そうだったんですか?」
先生は顔をしかめた。
「……つらい、は適した日本語じゃないな」
私をまっすぐ見つめて言った。
「恋しくてたまらなかったんだ」
照れたように笑う。
「これからずっと一緒にいてくれないか」
きっと今の先生は私しか見たことがないだろう。槙 司という、男の人。物知りで自信に溢れていて、ちょっとだけ生意気で可愛い人。
私は先生の瞳の奥を見つめた。その表情は少しだけ泣きそうで、支えてあげたいと心から思った。
涙がとめどなく溢れてきて、ああ、いけないと、とっさに堪えようとした。
あれ?
ああ、そうか。泣いてもいいんだ。
私は今、教師じゃない。
ただの先生のことが好きな一人の女だった。
泣いてもいいんだ……。
伝った涙を拭おうと、先生はハンカチを頬に寄せた。
「だめです。また化粧で汚れちゃいます」
「大丈夫、使わせてくれ。こんな時のためにずっと持ってたんだから」
私は返事の代わりに目を閉じて、先生を受け入れた。大きな手の平が私の頬をやさしく包んでいく。
私は目を開けたら、なんて言おうか決めていた。
「どうした?」
先生が心配そうにのぞきこんだ。
「先生、私と――結婚してください」
先生は何も言わず大きくうなずいた。私の背中に腕をゆっくりとまわし、そっと抱き寄せた。私は先生の胸に顔をうずめた。
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