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さよなら
療養所帰りのひさの目に映る渉は、以前に比べてことごとく悪くなっている。幼い頃から心掛けた厳しいしつけが崩れ、言葉づかいは粗野に、生活態度はだらしなくなった。一番がっかりさせられたのは、三年生までは学年で抜群だった成績が、四年生になってごく平凡な位置に落ち着いてしまっていたことだった。
出遅れた、とひさは思う。渉の通う公立小学校では、N中学に行けるのは学年で一人か二人。K学院でもクラスで一番か二番どまりである。自分が療養所にいて見てやれなかったせいだ、という負い目がひさにはある。
幸か不幸か、女専まで出て、戦前、女学校の教壇に立ったこともあるひさには、小学校の勉強くらいならいつでも教えてやれる、という自信があった。家に帰って少し落ち着くと、早速、渉の「遅れ」を取り戻しにかかった。
始めてみると、渉は、まず机の前に一時間と座っていられない。集中力に欠けるのである。友達の声でも聞こえようものなら、そわそわしてもう勉強どころではない。そこでひさは一計を案じた。渉の友達を巻き込んでみては?彼等が遊んでいるから渉も気になるのだ。巻き込まれるより、巻き込むことを考えてみよう・・・
「一緒に勉強しないかって、誘ってごらん。」
ひさに言われて、渉は最も親しい遊び仲間に、少し照れながら声をかけた。仲間たちは意外な申し出に多少戸惑うようにみえたけれど、渉はグループの中心的な存在だったので、みな渉の誘いに乗った。
こうして、週に一度か二度、四、五人の仲間たちが、算数と国語の教科書を持って渉の家へやって来るようになった。渉君のおばちゃんが勉強を教えてくれるんだって、という子供たちの言葉に一番喜んで送り出していたのは、彼等の母親だったかもしれない。
子供たちも、最初は遊びの延長の気分で、けっこう楽しんで習っていた。勉強が終わればひさの手作りによるクッキーやケーキなど結構豪勢なおやつが出るし、そのまま遊びに移ることができる。
しかし、徐々に様子が違ってきた。同じ課題を与えられると、たいていは、まず渉が一番先にこなして机を離れる。次に浩一、そして淳二、といつも順番が決まっている。先にできた者は退屈して、いくら注意されても机を離れ、隣室で騒ぎ始める。ひさは、最後の子が理解するまで、丁寧に付き合う。わが子一人に対するときとは違って、決して苛立たず、辛抱強く、相手が納得するまで教えようという姿勢を崩さなかった。しかし、それが一人取り残される子にとっては、かえって重荷になっていることにまでは気づかない。
最後まで残る子に丁寧につきあう分、先に机を離れてしまう子供たちをコントロールすることも難しくなる。
子供たちの心の中では微妙な変化が起きていた。
「いつまでかかってんのやろ。」
「あんな簡単なことがわからへんのやろか。」
ひさが渉に対して感じていたような苛立ちを、今度は渉が「昨日の親友」に対して感じ始めている。
ある土曜の夕方だった。渉は例によって一番先に課題を仕上げ、隣室のベッドの上に寝そべっていた。次に浩一が席を立つと、たちまち二人でふざけ始め、やがて、淳二、公平、克敏と加わって、いつものように彰だけがえんえんと個人指導を受けることになった。ああまたか、という調子で、渉たちは彰を無視してベッドをトランポリン代わりに跳ね回る。
「静かにしなさい!」
堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりの、ひさの声が飛んできた。
「渉が一番やかましい。静かに待ってなさい。」
「自分の子やから、わざときつう怒ってんのや。」
渉はそばの浩一に低くささやいた。半ば照れ隠しに、半ば不満の意を表するために、ひさに聞こえるか聞こえないかの微妙な声で。
「なにを言うの。本当にこの中であんたの態度が一番悪いよ。」
ひさはかっとなって叫んだ。室内は水を打ったように静まり返った。
「今日はこれでおしまいにしましょうね。おばちゃん、ちょっと体の調子が悪いから、しばらくお休みにしてもらって、また渉に連絡させるから・・・」
緊張した子供たちは、ものも言わずに道具をかたづけ、「さようなら」、「ありがとうございました」と口々にかしこまった挨拶をして、逃げるように階段を降りていった。
渉は一人取り残され、ひさはベッドにすわってあらためて渉の態度を非難し始めた。突き刺さる言葉から身を逸らすように窓の外を眺めると、斜め下方の道を仲間たちが一団となって去って行くのが見えた。淳二が振り返り、渉が見ているのに気づいた。
「おい、渉君まだ怒られてるみたいやで」
渉のところまではっきり聞える声で、淳二が言い、みんなが一斉に窓のほうを見上げた。渉は力なく右手を肩まで挙げて応え、微笑んでみせようとしたが、顔がこわばって笑みがゆがんだ。
「さよなら!」
「さよなら!」
仲間たちは渉を励ますように大声で叫んだ。外はまだ夕闇が支配する前の明るさを保っていた。
「本当にどう思ってるの。」
声の方を振り向くと、もう室内は仄暗く、ベッドの上にすわった母の顔が一瞬茫漠としてとらえどころのないもののようにみえた。
(完)
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