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【1】Side:M
「俺が教えてやるよ。イケナイコト、全部」
優しい低音が、鼓膜を揺らした。真上のすごく近い位置に男性の顔があり、思わず息を飲む。
綺麗な顔に見惚れていると、ゆっくりと唇が重ねられていった。
――これが、僕の初めてのキスだった。
重ねるだけでなく、舐めたり、吸ったり、まるで恋人みたいに優しく、丁寧にキスを教えてくれる。
さっきまで震えが止まらないくらい緊張していたのに……いつの間にか、熱いキスに溶かされ、震えは止まっていた。
今、僕は初めて『援助交際』をしている。
理由は、特にない。
お金に困っているわけではない。
セックスだってしたことない。
相手は誰でもよかった。
本当なら、今頃僕は塾の授業を受けていたはずだった。大学受験まであと三カ月、ピリピリとした空気や周囲のプレッシャーから無意識に逃げてしまった僕は、駅前にあるシンボルの下にいた。
白い溜息を吐きながら、SNSで愚痴をこぼす。「誰でもいいから、このまま連れ去ってほしい」……そんな呟きに、いいねはつかなかった。家に帰っても、塾にいても、大人から「勉強しなさい」と重圧を押し付けられる日々にはうんざりだ。
いつまで経っても誰も反応してくれないSNSにも嫌気がさして、僕はスマホの電源を落とした。もう嫌なことは全部忘れたい。
そんな時、ふと、グレーのスーツが視界に入った。少し目つきの悪い男性だ。男性は僕をじっと見つめながらこちらへ近づいてきた。
「誰か待ってんのか?」
そう問われ、僕は首を横に振る。なんとなく「援助待ち」と答えると、今度はダイナミクスを尋ねられた。
ダイナミクスを持つ場合、支配欲と従属欲を満たすだけの行為が行われる。つまり、相手が求めるのは『自分とは逆の性』であることが大半だ。
特にDomは、自分の支配欲を満たす為なら手段を選ばない輩が多い。無理やり連れ去ったり、恐怖で支配しようとする。……僕の嫌いな人種だ。
「僕は……ノーマルです」
プレイを望んでいなかった僕は、男性の問いに対し嘘をついてしまった。
男性は「ふうん」と言いながら、僕の頭から足の先を、品定めするような目つきで見てくる。もしかして、嘘を見破られてしまっただろうか……。そうドキドキしたけれど、すぐにそんな不安はなくなった。
「ノーマルか。丁度いい」
丁度いいという男性の言葉に、ほっと息を吐く。ということは、この男性もおそらくノーマル。
プレイではなく、セックスの相手を探しているようだ。
「三万でどうだ」
周りに聞こえないように、男性は僕の耳元に顔を近づけてきた。
身長差は十五センチくらいだろうか。ちょっと見上げたところに男性の顔があって、どきどきと脈が早まっていくのを感じた。
目つきはちょっと悪いけど、綺麗で、きりっとしていて、カッコイイ。
僕は男性の誘いに、真っ赤な顔をコクリと頷かせたのだった。
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