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両親健在、妹がひとり。
住宅街の一角で、ごく普通の生活を送っている一般家庭。
塾にも通わせてもらって、何不自由なく暮らしている。
誰も、こんな僕が援助交際しているなんて思わないだろう。
(尾張 乃永瑠さん、か)
脱衣所で、帰り際に教えてもらった男性の名前を思いだす。
今度はいつ会えるだろうか。そんな恋心にも似た感情を抱きながら服を脱ぎ、洗面台の鏡に映った自身の身体を見つめた。
今日、人のぬくもりを知った肌。
優しい手付きを思い出して、思わず頬が熱くなる。
……いけない、いけない。表情に出さないようにしなくちゃ。これは、誰にも言えない秘密なのだから。
さ、早くコンタクトを外して、お風呂に入ろう。
このコンタクトをつけ始めたのは、中学生になってからだ。
視力が悪いわけではない。これは、Dom専用の『グレアを抑えるためのコンタクトレンズ』である。
そう、僕のダイナミクスはDom……。
大っ嫌いな、Domなのだ。
学校で行われたダイナミクスの検査で『Dom』と診断されてすぐ、僕のグレアが暴走し、周囲にいたSub達を傷つけてしまったことがある。
仲の良かった友人も巻き込んでしまい……それ以来、口をきいてくれなくなった。
だから僕は、ノーマルになる為にこのコンタクトをつけている。
両目のコンタクトを外し、洗面所の鏡を向くと……そこには赤茶色の瞳の自分が写っていた。
――大嫌いな、僕。
尾張さんにダイナミクスがバレたら、この関係は続けられないだろうな。
だって彼は、ノーマルなのだから。
絶対に、隠し通そう。何があっても。
そう強く思いながら、僕は前髪をがしがしと崩して、視界を狭めたのだった。
それからも、月に一回のペースで尾張さんとの援助交際を続けた。両親には「塾で自習してくる」などと嘘をつき、こっそりと逢瀬を重ねる。
帰宅した後、両親から声をかけられる度に心臓が跳ねたが……全く疑われることはなかった。
初めて彼と出会ってから五カ月。僕は無事志望校に合格し、大学生になった。空き時間にアルバイトもはじめ、充実した日々を過ごす。そんな中でも、尾張さんと会う日は特別だった。
彼に会うのが楽しみで、毎日、尾張さんのことが頭から離れない。授業を受けても、家でごろごろしていても、ずーっと彼のことを考えてしまうのだ。
また優しいキスをしてほしい。気持ちいいことを教えて欲しい。あーあ、次はいつ会えるのかなあ。
そんな思いに耽っていたら、自分の名前が呼び出された。
「波地 茉莉登さん。一番診察へお入りください」
ここは市内で唯一ダイナミクス科のある病院。中学時代からお世話になっていて、毎月、薬をもらうために来院している。
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