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「仕事柄、家に居ることがあまりないからさ。風呂入って寝るだけの家だから、ここで生活する時間は少ないんだ」
そう話す狭川さんは、ダイニングから続くカウンターキッチンへ足を向けた。このキッチンも好きに使っていいよ。と言ってくれて、俺はお礼を言う。
「本当にありがとうございます。あ、あの、出来ることがあれば言ってください。何かお礼がしたいです」
「お礼なんかいいんだよ、気にしないで。でも、どうしてもって言うなら……僕のお願い、聞いてくれる?」
一瞬、彼の表情が陰った気がした。
どんな願いなんだろう。こんなに沢山助けてもらったのだから、どんな願いも叶えたいと思っているのは本当だ。
でもそれは、俺にできることなのか。不安な気持ちも抱えながら小さく頷き、ごくりと生唾を飲み込むと、狭川さんは「ありがとう」と笑んだ後、願いを口にした。
「僕が家を出る時、いってらっしゃいと見送って欲しい。帰ってきたら、おかえりって出迎えて欲しい。……こんなお願い、叶えてもらえる?」
「も、もちろんです!」
寧ろ、そんなことでいいのか! あまりに簡単な願いに、思わず拍子抜ける。しかし話を聞いてみると、その願いは切実なものだった。
「若い頃からずっと一人で生活してるから、見送られたり、出迎えられたりするのに憧れててさ。うちに居る間だけでいいから、家族みたいになれたらいいなって」
そりゃあ、急には無理だろうけど……少しずつでいい。毎日顔が見られれば、それだけで安心できるんだ。狭川さんは眉を下げ、寂しげな表情でそう続ける。
「でも、君の生活を制限するつもりはないんだ。帰りが遅くなったりするのは全然構わないよ。実家代わりだと思って、過ごしてね」
もしかしたら彼は、孤独に苦しんでいたのかもしれない。
俺も一人暮らしをしていたから、その孤独には共感できる。だけど、狭川さんは俺よりもずっと長い間、一人なのだろう。一人でいる時間が長ければ長いほど、孤独感は強いはずだ。
彼の優しい言葉に、俺は「ありがとうございます」と礼を言う。なんて優しい人なんだろうと改めて思った。困ってる人がいるからって、ここまで助けてくれる人はそういない。
あの時、狭川さんの好意に甘えて事情を話してよかった。あのままだったら、俺は悠聖との関係をずるずると続けていたかもしれない。
「あ、そうそう。これ、うちの合鍵ね」
狭川さんが思い出したようにそう言って、ズボンのポケットからシルバーのディンプルキーを取り出す。「はい」と笑顔で差し出されたそれを、俺はそろそろと受け取った。
「……そう簡単に渡しちゃダメって、言ってませんでしたっけ?」
「はは、君のことは信用してるから大丈夫」
金目の物もないしね。と付け加えられ、確かにそのとおりかも、なんて思ってしまった。それくらい、家の中はがらんとしているのだ。
俺に貸してくれた部屋も、寝具以外は何もない部屋だった。元々客間として利用しようと思っていたらしいのだが、狭川さんは「そもそも客なんて来ないんだよね」と自嘲的な笑いを漏らした。
「今度は無くさないでね」
「は、はいっ、大事にします!」
合鍵を渡すのは、信頼の証だ。今回の事でそれを痛いくらいに知った俺は、この信頼を絶対裏切らないようにしようと強く思ったのだった。
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