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ようやく家の中へ入ることができ、疲労からスーツのままソファーに背を沈めた。ああ、背広がシワになってしまう。だけど頭の中は、それどころじゃなかった。
頭を撫でられた感覚がまだ残っている。まるでお父さんみたいな、大きな手の温もり。嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気持ちになった。
――「僕の家に来ていいよ」
鍵師の言葉が脳内でリピートして、それから答えを探すようにゆっくりと自分の気持ちを整理する。彼の提案は嬉しかった。出会って間もない俺のことを、本気で心配してくれている。
――「身の安全を第一にね」
鍵師も言っていたが、逆恨みされて刺されることもありうる話だ。このまま悠聖の言いなりになるのも、ビクビクしながら日々を過ごすのも、どっちも嫌だった。
意を決した俺は、重い身体を起こして寝室へ向かい、クローゼットを開ける。そこには、以前出張で使ったネイビーのスーツケースがあった。
奥からそのスーツケースを取り出した俺は、その中にシャツや下着、私服を詰め込む。
そしてもう一度、鍵師から貰った名刺を手に取り眺めた。
「狭川、九敏……」
呟くように彼の名前を読む。明日朝一番、電話をしてみよう。悠聖に感付かれる前に行動しなくては。そう思いながら俺は名刺を胸に当て、ふうーっと息を吐いたのだった。
翌朝。こちらから電話を掛けると、すぐに狭川さんが家に来てくれた。「考えてくれたんだね」と優しい笑みを向けられ、俺はコクリとひとつ頷く。
「ご迷惑をおかけしますが、狭川さんのお言葉に甘えさせていただきます」
「うん、じゃあ、早速はじめようか」
俺の返事を聞いた狭川さんは、すぐに鍵を新しいものに取り換えてくれた。それから荷物をまとめたスーツケースを持って、玄関を出る。
「はい、これ新しい鍵ね」
そう言って、新品の鍵を渡された。それを使って玄関を施錠し、確かに鍵がかかったことを確認する。
「忘れ物はないかな?」
「はい……たぶん」
忘れ物があったとしても、取りに来ればいい。そう分かっているけれど、どこか遠くへ行くような、もう二度と帰って来れないような錯覚がして、不安に押しつぶされそうになってしまう。
それを察したのか、狭川さんは大きな手をこちらへ伸ばした。わしわしと動物を愛でるような手つきで俺の頭を撫でると、それから「行こうか」と言って背中を押してくれたのだった。
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