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狭川さんの運転に揺られること20分、目的地に到着した。そこは綺麗な20階建てのマンションで、スーツケースを引きながら思わずエントランスを見上げる。
「ホテルみたい……」
「君にとっても、悪い環境じゃないと思うよ」
目の前にはスーパーもあるし、抜け道を使えば駅まで10分もかからないんだ。狭川さんはそう言いながら、共用玄関のオートロックを解除する。
鍵を差し込むと自動ドアが開き、その先にはエレベーターホールが広がっていた。
狭川さんが壁のボタンに触れると、上向きの矢印がオレンジ色に光る。するとすぐに『ぽーん』と軽快な音が響いて、エレベーターのドアが左右に開いた。狭川さんはドアを押さえながら「お先にどうぞ」と紳士的なエスコートをしてくれる。
エレベーターの中は意外と広かった。狭川さんが階を指定すると扉が閉まり、ふたりっきりの空間が静かに動き出す。
「あの、ここまで来てから聞くのもどうかと思うんですけど」
実は、ずっと気になっていたことがあった。早く尋ねればよかったのだが、うっかり聞きそびれたまま、タイミングを失ってしまっていた。
「ご家族の方は、了承してくださったんですか」
「家族?」
「奥さんとか……」
急に見ず知らずの男性をひとつ屋根の下に住まわせるなんて、家族は反対しなかったんだろうか。
部屋が余っているとはいえ、家族に無断で俺を匿おうとしてくれているのなら、やはり断るべきだ。そう思っていたのだが、狭川さんは「だいじょーぶ」と笑っていた。
「僕、一人暮らしだから。何も遠慮しなくていいよ」
そう言いながら狭川さんは、左手の甲をこちらへ向けた。
それが何を意味しているのか、すぐに理解する。彼の薬指に、指輪は嵌められていなかった。既婚者だろうと勝手に決めつけていたことを反省した。
失礼な言い方をしてしまっただろうか。そう不安になったけど、狭川さんはちっとも気にしていないようで「それより、高いところは平気?」と尋ねてきた。丁度そんなタイミングでエレベーターは最上階に着き、ドアが左右に開かれる。
質問の意図を探る間もなく俺の目の前に広がったのは、青空の下に広がる、都会の街並み。遠くまで見える壮観な景色に、俺は感嘆の声をあげていた。
「わあー! すごい!」
「でしょう。夜になったら、もっと綺麗だよ」
エレベーターホールから見える絶景に心を躍らす。
夜景にも期待を膨らませながら狭川さんの後を追い、共用廊下を進んだ。エレベーターホールから5軒目。狭川さんの家は、角部屋だった。
「さあ、どうぞ。君を迎えに行く前に、掃除だけはしておいたんだ」
そう言いながら、狭川さんは部屋を案内してくれた。
玄関を入ってすぐ、左に狭川さんの寝室と、もうひと部屋。右に空き部屋があり、そこを自由に使って良いとのこと。
廊下の先のドアを開けるとリビングダイニングが広がっており、だけどそこにあるのは小さなテレビと、ローテーブルとソファーだけ。余計なものがない殺風景とも言える部屋に、俺は思わず「何もない」と漏らしていた。
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