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プロローグ
これは私に生きる力をくれたおばあちゃん達との出会いと別れまでのお話です。
2013年のある日に私は突然、職場のホテルで夜勤休憩している最中に倒れました。目覚めたらベットの上で喋れず、動けず、顔しか動かせません。そこから2か月で喋れなくともリハビリのおかげで座位保持が少しでき、リハビリテーション病院へ転院する……。この時の自分は病名も理解してなかった。
転院先では喋れないままの私がもう死にたいと思うくらいの感情は取り戻せていた。今まではただリハビリが嫌でどうにか寝ていたいという事ばかり考えながら、無感情で笑ったり怒ったりしていたのを覚えています。
声が出るようになる前日に搬送先の病院の看護師さんがお見舞いに来てくれました。とてもお世話になったので少し元気になった私を見て泣いて喜んでくれました。色紙を持ってきてくれたんです。
そのときの病棟全員の看護師さんと主治医の寄せ書きです。この頃からお見舞いと携帯電話が解禁となりました。職場の人がお見舞いに来てくれたり、携帯電話の通知が止まらなくなり、私はこんなに沢山の人に心配かけたんだなと感じた。
そこから本格的な嚥下や発声のリハビリが始まり、気管切開してカニューレが入っているのでまだ飲食はできません。水分補給は、ロリポップキャンディのキャンディ部分がスポンジになっている道具で、飲み物をしみ込ませ口内を塗りたぐって渇きを凌いでいた。
週一回のカニューレ交換が本当に地獄で、そんなこんな(メインはここではないの)で無事に食事解禁となり、喉に詰まらないよう全ての食事に「とろみ」が付いていて、離乳食並みの何だかわからないメニューでした。実は初めての食事は、転院前のお祭りイベントで特別にOKをもらい、配られた「レモン味のかき氷」なのです。泣きそうになるくらい美味しかった。その時の笑顔だけは、本物で忘れられない思い出の味です。
ご飯が食べれるようになったという事はお話もできるようになり、その時に初めて分かったのが自分の病名です。それはくも膜下出血でした。脳出血だと思ってたのが、脳卒中のうち致死率が高いくも膜下出血と知り、生きていたのが奇跡だとも言われました。もし、職場でなく自宅や外出中なら死んでいたそうです。この時から私は再び与えられたこの命を大切にしようと心に誓った日です。
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