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音のない国
そこは、どこまでも奇妙な国だった。
国境を越えてすぐ私が感じたのは、不思議な魔力の気配である。何かの結界を飛び越えた感覚によく似ている。魔法使いという存在が珍しくなくなった昨今ではあるが、しかし国そのものに魔法をかけるというのは聞いたことがない。女性雑誌記者として、世界中を飛び回っている私ですらだ。
「うわっ」
工業で栄える町というだけあって、町のあちこちに大きな工場が立ち並んでいる。傍に近寄ってすぐ、私はあまりの騒音に耳を塞ぐことになった。
ガラガラガラガラ、という土砂が落ちるような音。
金属を派手にかき混ぜるような音や、何かをプレスするドシャン!ドシャン!という葉でな衝撃音まで。とにかく多種多様な音で溢れていて、五月蠅いといったらなかったのである。
この国の人々は、よくもまあこんな頭が痛くなるような騒音の中で生活できるものだ。この国、特にこの町では自動車の生産が盛んである。最新のレーシングカーに関する記事を書こうと思っていた私にとって、工場での取材は必須だったわけだが――この騒音では正直、取材どころではない。五月蠅すぎて眩暈がするほどなのだ。
やむなく私は、役所へ行って相談することに決める。よく考えたら、しかるべきところに許可を貰っておいた方がずっと安全なのは間違いない。
――この国の人達は、音に鈍感なのかしら。普通、あんな大きな音の中で仕事なんてできないと思うんだけど。
役所で番号札を貰って時間待ちをしていると、私はさっきから感じていた違和感の正体に気が付いた。
工場では五月蠅すぎてわからなかったが、歩道を歩いていても、商店街を通っても、こうして役所のベンチで座って待っていても――まったくといっていいほど、人の声らしいものが聴こえないのである。
音がしないわけではないが、妙なほど静かなのだ。響き渡るのは足音や、衣服の布ずれ、ペンを走らせる音やキーボードを叩く音のみなのである。
喋ってはいけない理由でもあるのだろうか。そう思っていたところで、ぽーん、と柔らかい音が響いた。電光掲示板に、私が持っている“35番”の番号が表示されている。カウンターへ歩いていくと、自分が所属する出版社と担当している雑誌の名前、己の名前を告げたのだった。
「この国で、最新のレーシングカーに関する取材がしたいんです。今回は、王様自らデザインされたというお話ですし、できれば王様にも取材許可を頂きたいんだけれど……こういうことは、何処に相談すればいいのかしら?」
いくら探しても、王室に繋がる電話や政府関連の電話の番号が見つからなかったのである。王様への取材はさすがにアポイントメントが必要だ。それで、役所に直接相談しにきたというわけである。
「……?」
私の言葉に、受付の中年女性はきょとんとした顔をした。私みたいに若い女の記者が珍しいのだろうか、と思ったがどうやらそうではないらしい。
僅かな間の後、女性は合点がいったとばかりに手を叩くと、カウンターの机の中からノートとペンを取り出したのだった。そして、さらさらと文字を書いていく。
『この国の、ということはあなたは外国の方なのですね?この国の現在の状況をご存知ない?』
「……?」
確かに、私の故郷はこの国から海を越えて遥か遠くに位置している。この国とは国交がほぼ途絶えていることもあり(個人での往来は禁止されていないのだが)、情報があまり入ってこないのは事実だ。
『もしかして、貴女は耳が聴こえず、喋ることもできなかったりしますか?』
私が彼女が差し出したノートに記すと、受付の女性はこくりと頷いて返事を書いてきたのだった。
『私だけではありません。この国では、百年ほど前からみんなこうなのです』
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