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ウィステリア王国は、海に面した小国だった。国民の半数は漁業や海運業に従事しており、歴史ある港町のサウスブルクは、王国の重要な商業拠点である。 サウスブルクを治めているのはダスタン・ヴァレンタイン辺境伯で、辺境伯には一人娘がいる。娘の名はエレナ・ヴァレンタインといい、剣術の達人である辺境伯から幼い頃より剣を学んでいた。令嬢エレナの剣の名声はウィステリア王国全土に轟いていたが、一方で「女のくせに剣ばかり振っている」「あんなに強いんじゃあ男は誰も結婚したくないだろうね」と陰口を叩かれることもしばしばだった。 そんな令嬢エレナに転機が訪れたのは、一年前の舞踏会のこと。舞踏会は年に一度、ウィステリア王国とベガ王国との国境近くにあるクシャータという街で開催される。会場は華やかなシャンデリアで照らされ、壁一面には美しい絵画が飾られる。ベガ王国との親交を深めるという名目だったが、実際にはベガ王国への接待であった。ウィステリア王国は行き過ぎるほどのもてなしと、抱えきれないほどの金銀財宝を用意した。そんな政治色の濃い催しに、去年は偶然にもチャールズ・ベガが招かれていた。チャールズはウィステリア王国の隣に位置する大国ベガの第二王子である。そして、両国の重要人物が集まる舞踏会で剣舞を披露したエレナに、チャールズが一目惚れをした。 「あの見事な剣舞を見せてくれた女性の名は、何というんだい?」 チャールズは側近のポポに訊いた。 「彼女は、ウィステリア王国のサウスブルクを治めるダスタン・ヴァレンタイン辺境伯の娘です。王族ではありませんが、ウィステリアで最も力のある家です。今世界中の女性から愛されている真珠、ベルパールの生産を手掛けています」 「なるほど……そうか。まあ家柄はどうでもいい。なんて美しい人なんだ。あの人とどうしても結婚したい」 「チャールズ様、それは無理な願いです。彼女の身分は低いわけではありませんが、チャールズ様と比較にはなりません。国王様は王族同士の結婚を重視しており、許可なさらないでしょう」 「父上のことは気にしなくていい。どうせ僕は第二王子なんだ。国王になるのは兄上だろうし、結婚相手くらいは自由に選びたいじゃないか」 ポポの制止を振り切り、チャールズは剣舞を終えたエレナに話しかけた。舞踏会に出席している他の王族女性たちの視線は、変わらずチャールズに向けられている。数百人を収容できる館の暗い一隅にも、燃えさかる太陽が降りてきているかのような光が満ちた。 「お初にお目にかかります、エレナ・ヴァレンタイン様。僕はベガ王国第二王子、チャールズ・ベガと申します。時を忘れてしまうような華麗な剣舞でした」 「あら、はじめまして。エレナ・ヴァレンタインです。褒めてくださりありがとうございます。私に話しかける暇があったら、あそこでハンカチを握りつぶしている厚化粧の女たちのところへ戻ったらいかが?」 エレナは家柄や身分に惑わされることのない、強い意志を持つ性格だった。ただそんなエレナでも、舞踏会にいるチャールズのことを認識はしていた。彼は髪を後ろに流し、鋭い眼差しで周囲を見渡す端正な容姿をしていた。彼が身に着けていた紫のベルベットの服は、彼の立ち姿を一層優雅に見せており、舞踏会に参加したすべての女性が彼に見とれていた。 しかしエレナは、チャールズが他の女性たちと軽薄な冗談を言い合っているのを見て、彼に対して好意を持つことができなかった。彼女は真剣な剣術を学んできた身であったし、そんな浮ついた態度を取る男性には興味が持てなかった。そもそも王族にも興味がないし、早く舞踏会を切り上げて帰りたかった。つまらない社交辞令も、剣舞の後に着替えなくてはならない窮屈なドレスも、うんざりなのだ。 エレナは剣舞で使用した剣をロウソクの火の近くへかざし、刃の輝きを確かめながらチャールズと話した。彼に見向きもせずに剣を二度素振りしたとき、遠目に見守っていた父親のダスタンが飛んでやって来た。 「おい、エレナ! この方はチャールズ王子だぞ! 無礼にもほどがある。チャールズ王子、申し訳ございません。この子は田舎娘でして、どうかご容赦を。あとでしっかり教育しておきます」 髭を豊かに蓄えた大柄のダスタンがぺこぺこしている姿を見て、エレナはつい笑ってしまった。いつもは港で配下の人間たちに偉そうにしている辺境伯が、大国の王子を目の前にして恐縮しきっているからである。 「いえいえ、ヴァレンタイン辺境伯殿、お気になさらないでください。片付けの最中に話しかけたのは僕ですから。剣は辺境伯殿がお教えになったのですか?」 チャールズの余裕の対応にほっとしたダスタンは、 「はい、私が教えたのでございます。エレナは一人娘でして、兄弟がおりません。私が治めておりますサウスブルクでは、海の荒くれ者にも大勢出遭います。せめて自分の身くらいは守れるようにと手ほどきしたのですが、いつの間にかこのように男勝りになってしまいまして……手を焼いているのです」 「ははは、そうだったのですか。エレナ様の大きな青色の瞳は、サウスブルクの美しい海からきているのかもしれませんね。ところで……私は王子という立場上、ウィステリア王国以外の国とも交流を持つ機会があるのですが、今まで見た中で最高の剣舞でしたよ。間違いありません」 ダスタンの顔がぱっと明るくなった。 「チャールズ様も、大変お強い剣士であらせられると聞き及んでおります。そんな御方からお褒めの言葉をいただけるなんて……よかったなエレナ、エレナからもお礼を言いなさい」 剣を鞘にしまい、袋に包んでいたエレナは無愛想にダスタンとチャールズを見た。 「チャールズ王子は剣が強いのですか? でしたら手合わせをお願いしたいものですわ」 その言葉にまず反応したのはチャールズのすぐ後ろにいたポポで、「王子、受けてはなりませんよ」と諌めていた。ダスタンはダスタンで「何を寝ぼけたことを言っているんだ! 早くドレスに着替えて王子のお相手をしなさい!」と怒った。 エレナはまっすぐな目でチャールズとダスタンを交互に見つめながら、 「言葉で何がわかるというんです? 綺麗だ、素敵だ、愛しているなどと言っていれば、その人の気持ちが理解できるとでも? 私は剣を交えるほうが、ずっとその人の人となりがわかります」 チャールズはこれを聞いて、微笑んだ。チャールズにとって初めて会うタイプの女性である。エレナの物怖じしない態度と、偽りのない言葉は清々しかった。 「エレナ様と剣を交えたいと思っていたところだったんです。僕だって、ベガ王国屈指の剣士であると自負しています。僕から一本とれないようでは、ベガ王国騎士団長には到底及ばないと思ってください」 「ベガ王国一の強さではないのね。がっかりだわ。でも、お相手してくださるなら喜んで剣を合わせます。腕がなまってはいけないから。少しくらいは楽しませてください」 エレナはまた袋から剣を取り出そうとしたが、チャールズは「出さなくていいですよ」と言った。ポポの剣を抜いてエレナに渡したあと、 「みんながびっくりしてはいけませんからね、外でやりましょう」 と誘って、エレナの手を握り館の外へ連れ出した。 不意に手を握られたエレナは目を丸くした。男性に触れられたことすらほとんどないのに、これほどしっかり掴まれるとは思ってもみなかった。いつもなら避けるところを、なぜ避けられなかったのか……。エレナは自らの油断のせいだと思い込もうとした。 月明かりが眩しいほど降り注ぐ夜だった。館の玄関を出て階段を降りると、松明が照らす噴水のしぶきが、周りに火の粉のような光を届けている。 チャールズはエレナの手をとりながら噴水のそばを駆けるようにして過ぎ、無数の赤い薔薇に囲われた芝生に着いた。 「さあ、舞台は整いました! ともに舞いましょう!」 チャールズはエレナの手を離して、剣を構えた。その瞬間、夜の空は煌めく星々をそれまで隠していたかのようにベールを脱ぎ、エレナは夜が持つ黒い艶を初めて知った。 「……気を取り直して……よろしくお願いします」 エレナは気を取り直して剣を握りしめ、チャールズへ向けた。チャールズと対峙して、この男は本物の剣士であるとわかった。 (もしかして……ウィステリア王国騎士団長よりも強い……?) 剣の切っ先で間合いをはかり、芝生の上を一歩移動するごとに、エレナは追い詰められていく。 (とにかく、先手を打って剣を交えるしかない。主導権を掴もう) そのときだった。チャールズが体勢を崩した。あり得ないミスだった。エレナはその隙を逃さないように、チャールズのすぐ正面まで音速の如く移動し、剣を振り下ろす。これで一本になるだろうと思った。 しかし、チャールズは体勢を豹のように持ち直して、目にも止まらぬ速さで剣を振り上げ受け止めた。エレナには経験のない速さだった。 剣を交えた瞬間、エレナは芝生の上を歩くテントウムシの姿に気がついた。その小さな命が、どこか無防備な目で彼女を見上げていた。そう、チャールズが体勢を崩したのは、テントウムシを守るためだった。緊張感に満ちた場面で、彼には足元の微細な動きさえ見えていたのだ。 剣と剣とが触れ合ったまま、チャールズはおもむろに口を開いた。 「僕と、結婚してください」 剣を握っていたエレナの右手の力が、夜空に吸い込まれるようにして消えた。 エレナの剣が、芝生の上を静かに転がった。
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