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柑橘系の香水
体が熱い。頭もクラクラしていて、自分が立っているのか座っているのかもわからなかった。
「池田さん、着いたよー。歩ける?」
「んー……?」
誰かが体を引っ張っている。力に逆らわず任せていると、人の体らしきものによりかかる。
もたれかかった私を支えながら、声の主は歩き出した。私も上手く動かない足でなんとかついて行く。
バタンとドアが閉まった音がして、タクシーに乗っていたことを思い出した。
「あ、オートロックか。鍵開けられる?」
「鍵……?」
「うん、鍵」
ぼんやりと見える視界には、エントランスに続く自動ドア。いつもの癖で何も考えずに暗証番号を入力し、ロックを解除した。
「綺麗なとこ住んでんねー」
また歩き出した体と一緒に自動ドアをくぐる。そこでようやく何かがおかしいことに気づいた。
あれ、私を支えてるのって鳴沢くん? ここって私が住んでるマンション? このまま鳴沢くんと入っちゃって、いいんだっけ?
「部屋まで送ってあげるから、安心して」
「部屋って、私の……?」
「うん。池田さんひとりじゃ歩けないでしょ?」
そもそもどうして鳴沢くんと一緒なんだっけ。ぼやけた思考をたぐりよせ、思い返してみる。
今日は久しぶりに職場の飲み会があって、参加したんだった。料理が美味しかったから食べてばかりいたら隣に座っていた鳴沢くんにお酒を勧められて、それで――。
「エレベーターはあっち?」
私が記憶を辿っているあいだにも、どんどん部屋に近づいている。鳴沢くんはただの同僚だし、親切心で部屋まで送ってくれるのだろう。そんな彼を疑うのは失礼な気がする。
でももし違ったら――。嫌な予感が頭をかすめる。力が入らない足で踏ん張ろうとした時、鳴沢くんとは違う声が聞こえた。
「池田様……?」
「乙部、さん」
ただの同僚ではあるけど男性にもたれかかってなんとか立つ姿を乙部さんに見られるのは、何故か気まずかった。彼がいつも上品なたたずまいでいるからだろうか。
少し驚いたような顔をしていた乙部さんはすぐにいつもの微笑みを浮かべ、私たちに近づいてきた。
「おかえりなさいませ。お体の具合が優れないのでしょうか?」
「あー、ちょっと飲みすぎただけなんで平気っすよ。俺もついて行きますし」
「……私、コンシェルジュの乙部と申します。そういったご事情でしたら、あとは私にお任せください」
「いや部屋まで送るだけっすよ。俺、池田さんの同僚だし、べつに怪しい人じゃないんで」
鳴沢くんと乙部さんが何かを話している。それはわかるのに、何を話しているかまではわからない。
ふたりの会話についていけず、ぼうっとしていると、不意に腰に腕がまわされた。その腕に引き寄せられ、体が動く。気づいた時には黒色のスーツに頬を押し付けていた。
ふわっと香った上品な柑橘系の匂いは香水だろうか。自分の物とは違う香りを吸い込んだ瞬間、ハッと意識がクリアになる。
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