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見えない真意
「住民の皆様の安全、安心のためです。どうかご理解ください」
「……はいはい。じゃあ池田さん、また会社でね」
私が何もできないでいるうちに、鳴沢くんは自動ドアから外へ出ていった。私と乙部さんだけになったエントランスに数秒沈黙が落ちる。
腰にまわされた手、もたれかかっている状況に一気に恥ずかしさが込み上げ、ゆっくりと体を離した。
「ごめんなさい、乙部さん……私だいぶ酔っちゃったみたいで。こんな状態で外部の人を入れちゃってすみませんでした」
「いえ、池田様が謝ることでは……」
「あ、スーツ汚しちゃってないですか? すみません、ありがとうございました。だいぶすっきりしてきたので、あとは一人でも大丈夫そうです」
はっきり言えない私に代わり、鳴沢くんを帰してくれた乙部さん。乙部さんがいてくれて助かったし、感謝もしているけど、一人で歩けないくらい酔った姿を見られたのは恥ずかしかった。
一歩足を引いた私から大きな手が離れていく。
「強引に触れてしまい申し訳ございません。しかし転倒の危険があるので、よろしければこちらにお掴まりください」
「え? えっと……」
「……心配なのです。お部屋の前まで付き添うのはご迷惑でしょうか」
差し出された腕に戸惑っている私に、乙部さんは懇願するような声をだした。形の良い眉が下がっているのを見ると、自然と手を乙部さんの腕に置いてしまう。
「……ありがとうございます、お願いします」
「私の方こそわがままを受け入れてくださりありがとうございます」
いつものように背筋を伸ばし綺麗に歩き出した乙部さんは私を窺いながら、ゆっくり進んだ。彼が操作してくれたエレベーターも直ぐにつき、乗り込む。
ドアが閉まるとまた静けさが私たちを包んだ。
「……先程の方は同僚と仰られていましたが……」
「あ、はい、そうです」
「では特別な関係の方では……」
「違います違います! 本当にただの同僚です」
私は手を振りながら慌てて否定する。
それを聞いた乙部さんは難しい顔をして、少しの間何かを考えていた。
「彼とは距離をとった方が良いかもしれません」
「鳴沢くんですか?」
「はい。意識がハッキリしていない女性にロックを解除させるなんて、ここまでついて来た理由が親切心だとは言いきれません」
「たしかに……」
誰かに対して厳しいことを言う乙部さんを見たのは初めてだった。
外では飲み過ぎないように気をつけていたけど、勧められるのを断りきれず飲んでしまったことを後悔する。
「……差し出がましい真似だとはわかっております。ですが……池田様に何かあったらと思うと気が気ではないのです」
「乙部、さん」
彼が本気で心配してくれていることは十分伝わってきた。乙部さんを不安にさせてしまったことを悔やむと同時に、こんなに私のことを考えてくれていたのかと思う。
たとえ仕事の一環だとしても、これほどまでに親身になってくれる彼に、胸が大きく脈打った。
「私の手の届く範囲だったらお困りの際には駆けつけ、お力になれます。でも離れてしまえば私にできることは少なくなります。それが歯がゆく、不安なのです……池田様はとても魅力的な方ですから」
「……私が、ですか?」
「はい。池田様はとても素敵な方ですよ」
真っ直ぐに見つめられ、そんなことを言われたら、アルコールとは違うもので頬が熱を持ってしまう。お世辞ではなく本気でそう思ってくれているのだと、何故か自然と思えた。
何か返さなきゃと思うのに、何も浮かんでこない。
乙部さんの言葉に私は「ありがとう」と言えばよいのか「ごめんなさい」と言えばよいのかわからなかった。
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