おかえりなさいませ

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おかえりなさいませ

(まい)ってさ、男運ないよね」  容赦ない一言。キッシュを口に運ぶ友達はどこか気だるげに私を見た。 「……やっぱり?」 「うん、絶対そう」  自覚はあるから苦笑を浮かべる。私も食べかけのキッシュにフォークを指した。  土曜日のお昼。程よくオシャレで程よく落ち着けるカフェは、ランチプレート目当てのお客で混みあっている。 「なんかさ、付き合ってるうちに都合良く使われること多くない?」 「やっぱりそう思う?」 「うん、絶対そう」  さっきと同じように言い切った友達は大学生の時に知り合った子だ。大学を卒業して五年。今でも休みがあえばこうしてランチやお茶を楽しんでくれる貴重な存在だった。 「今恋人いないんだよね? 気になる人もいないの? イケメンとか」 「イケメンかぁ……あ」 「なに、いるの? だれだれ? 会社の人?」  さっきまでの様子とは一変、友達は目を輝かせ身を乗り出してくる。その変わりように私はまた苦笑いを返した。 「いや、ただイケメンだなぁって思っただけで、そんなに接点もない人だよ」 「いいじゃん、接点なんてこっちが作るんだよ」 「えー、作れるかなぁ」  攻めないとと言わんばかりに友達はフォークをこちらに向ける。 「あんまり普段会わない感じ?」 「んー、いや、マンションで会う人」 「お、いいじゃん。仲良くなって部屋で食事とかさ」 「気が早いって」  そういう関係の人ができたら素敵なんだろうけど、ただイケメンというワードで浮かんだだけの人だから、友達に気が早いよと笑う。イケメンだけどあまり話したこともない「気になる存在」未満の人だ。 「ばったり会って、おかえりなさいとか行ってらっしゃいとか言い合うの、憧れるわぁ」  まだ想像を膨らませていく友達を眺めながら、ちょうど良い塩気のキッシュを口に運んだ。  自動ドアを通りエレベーターを目指す。途中にあるデスクへ視線を向ければ、いつもと同じ微笑みがあった。 「おかえりなさいませ、池田(いけだ)様」 「ただいま……です」  穏やかな笑みにぎこちなく会釈を返す。こうして挨拶をしてもらえるようになって数週間が経つが、いまだにどう返すのが正解なのかわからなかった。 「池田様、お荷物が届いております」 「あ、そうだった……ありがとうございます」  いつもは通り過ぎるデスクに近づく。高めのデスク、その向こうには丁寧な所作の男性。まるでホテルのフロントみたいだなと思った。 「こちらにご署名をお願い致します。お部屋までお運びしましょうか?」 「いえ、軽い物なので大丈夫です」  署名する紙を差し出した手はカサつきもなくしっとりしている。爪は短く切られ、美しく磨かれていた。 「池田様?」 「あ、すみません、署名ですよね」  細部までのこだわりに感心して動きを止めていた私に不思議そうな声がかかる。美しい手に見惚れていたなんて言えず、急いでボールペンを握った。 「本日は天気も良くお出掛け日和でございましたね」 「あ、はい……食事に行っただけですけど、晴れて助かりました」  まさか荷物とは関係ない話が始まるとは思っていなかったから、突然のことに内心慌てる。何故かいっきに緊張して字がガタガタになってしまった。 「お食事ですか。お仕事関連のでしょうか……?」 「いえ、友達とです」 「そうでしたか、それは良いですね」 「なのでくだらない話ばかりですよ。今日は男運がないよねって言われちゃって」 「池田様がですか?」  驚いたような声に思わず顔を上げる。私に向けられた瞳は少し大きくなっていた。しかしハッとしたようにすぐに姿勢が正され、顔にも微笑みが戻る。間近で見る笑みは思っていた以上に目を引き寄せるものだった。  住んでいるマンションに突然導入されたコンシェルジュ。私たちの暮らしを助けてくれる彼の胸には「乙部(おとべ)」と書かれたネームプレートがある。  品の良いダークブラウンの髪、柔らかな微笑み、洗練された所作。それに加えて整った顔立ち。さっき友達との会話で浮かんだイケメンとは、彼のことだった。 「なんというか、断りきれない性格だからか、都合良く扱われることが多くて……こんなに人に甘くていいのかなって自分でも思います……なんて、こんなこと言われても困っちゃいますよね」  こんなことまで話さなくても良かったなと途中で後悔しながら、誤魔化すように苦笑する。しかし乙部さんは真剣な顔で口を開いた。 「池田様のその優しさは素晴らしいものだと思います。誰にでもできることではありません」  こんなふうに言って貰えたのは初めてのことだった。仕事でここに立っているだけだとわかっていても、乙部さんの言葉に心が少し軽くなる。  愚痴っぽくなってしまったぼやきのようなものだったのに、きちんと受け取ってくれたことが嬉しかった。 「……ありがとうございます」  爽やかだけれどどこか色気もある顔が私に向けられている。じっと見つめてくる瞳に少し照れて、意味もなく前髪を弄る。  仕事で接してくれているだけだからこんなことを考えては失礼だとわかっていながら、乙部さんなら人を都合良く扱ったりしないのだろうと思う。  こんな人が恋人だったら幸せなんだろうなと考えながら、届いた荷物を受け取った。
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