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 同級生の祖母が昨日長い眠りについたことを朝礼の先生の話で知った。その同級生は今日学校を休んでいるが、明日には何食わぬ顔で登校して、同じようにおどけた調子で私に話かけ、私は彼との無意味な会話を楽しむことになるだろう。この低密集地域の小さな田舎町でも週に一度は誰かが眠りについたことの知らせが何らかの方法で耳に入ってくる。今朝のように先生から聞くこともあれば、母が井戸端会議で情報を仕入れ、その晩の夕飯の肴として他の家族の耳にも入ってくることもある。それぐらいこの睡眠珪化症は生活の中に浸透していた。  学校からの帰り道はやや上り坂で二キロメートル弱の道のりを私は毎日徒歩で通学している。学生も会社員も同じだが、学ぶことは無駄のない形で三百年前から用意されており、働くべきこともすでに効率化された形で三百年前から用意されている。私達はただそれを従順にこなしていくだけなのだ。私達は最後に残った一つのピースをはめることだけを要求されている。急ぐ必要はないので、皆ゆっくり時間をかけて歩いて学校に向かい、午後も三時間程度で規定の授業は終わり、同じようにゆっくりと歩いて帰宅する。延々と自由な時間があれば人間はなにをするのか。何もしないのである。夕飯が準備されるまでの時間に、かつては山越えのために先人により切り開かれた山道を自宅めざして登る。ふと目線を上げると登校時には存在しなかった乳白色の岩塊が遠くに小さく見えた。近づいてくるとそれは正座をした長い髪の小さく蹲った老女だった。老女の体表面は薄い被膜に覆われているように見え、その被膜は夕焼けの暖色光を浴び七色に分光した。さらに近づくと老女の体表面は緻密な結晶で覆われていることが肉眼でもわかった。この老女のように睡眠珪化した老人は近年日々増加しており、個人の要望で、ここのような見晴らしが良く人通りの少ない静かな場所に設置されることが多く見受けられた。この古い街道沿いにも数十の珪化老人が道祖神のように並べられている。世界中を巻き込んだ大戦が起こったのは三百年程前で、そのころに最初の睡眠珪化症の患者が出たと言われている。それは生体反応を残したまま、人体の一部が珪化していく現象で、体表面の珪化はその最終段階であり、体表面の全体が結晶化するとそのまま眠りにつく。これまでに眠りについた人間は誰一人目を覚ましていないことが知られている。睡眠珪化症についてわかっていることはそれくらいだった。大戦後、症状は広まったが、それはどのように感染するものなのか、感染などではなく自然発生的なものなのか、皆目見当はつかなかった。神社仏閣や個人で作ったような小さな祠に珪化した老人が祭られていることもある。三百年前の当時には、生きながら形を変えずに結晶化した人間が神々しい存在に見えたのだろう。ただ、そんな時代も過去のものとなり、今や増加した珪化人は今朝のように個人の意思のもとに残された人間がその意思に従い、各々の場所に設置している。都会では増加の一途をたどる珪化人の設置場所が問題になっていると報道されていたが、私が住むような田舎町では特段大きな問題にはならず、道沿いに仲良く地蔵菩薩の如く数体並んで立っている珪化人に雀が止まっていたりする姿を見るほどにのどかなものである。その傍らには誰かが供えた花や食べ物が置いてあり、彼らはもう生きながら、仏となった身なのかもしれないと私は勝手に思っている。その姿を見ていると若い私達も同様に睡眠珪化症は決して避けられるものではないと理解し、死という概念は理解していてもそれは過去の価値観であると私には思えるのである。死んでいるのではない。眠っているだけなのだ。遠くの方に家の明かりが見えて来たときにはもう夕暮れになっていた。 弟はすでに帰宅しており、母が夕飯の用意をしてくれていた。いつもと同じ一日の終わり。家族でそれぞれ今日あった出来事を共有する。夕飯後、父はすぐに寝てしまった。父は自営業のため家で仕事をしていたが、体組織の大半が珪化し、定位置に座り、動かないことが多かった。食事が終わると今日も胡坐を組んだまま座って寝ている。体組織の珪化が突如急速に進み、明日はもう目を覚まさないのではないだろうかと思う。私達はまだ父からは永久睡眠後に自分をどこに設置してほしいのかという要望を聞いていなかった。  次の日、私は父が昨日と同じ格好のまま、胡坐座に足を組んでいるのを見た。父はもう目を覚ますことはなく、穏やかな表情の一つの塑像になった。父の胸に耳を当てるとその鼓動が脈打つ音が聞こえる。父はここで眠りながら生きている。父は50歳を過ぎたばかりだった。 私達は三人で父を庭に面した軒先の固いモルタルの床の上に、いつも父が使っていた潰れかかった座布団敷き、父を置いた。父の体を自分の腕に抱えたことは初めてのことだったが、弟と二人で抱えた父はとても軽かった。父は穏やかな顔をしていて、二つ空いた鼻腔からわずかに空気が抜ける音が聞こえる。
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