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 数日前から、テレビのニュースで睡眠珪化症の発症者が急速に増加していることが報道されている。これは今までにないペースで今週に入って、これまでにないペースで発症者が増えているらしい。  笑ったりする時、歯を磨く時、食事をとる時、顔を洗った時の顔面の違和感は明らかなものとなり、私は自分の珪化が始まったことを認識した。そのこともあってか、このニュースを聞いて、得も言われぬ不安を感じた。 「おはよう。なんか急に発症者が増えたみたいだね。」 自分の部屋がある二階から降りてキッチンにいる母にそう話すと、母はそうなのね、と興味なさそうにつぶやいた。母はリビングの一番大きな引き戸から庭に出ると、軒先の完全に珪化した父の足元に水、米、塩を置いて、両手を胸元で合わせた。父の珪化後、母はそれを日課としていた。私や弟に対してその行為を強制することはなかったが、私にはまだそれをする気にはなれなかった。父は死んでいないと、世間的には明言されているはずなのに、死んだかのような扱いを受けていることを受け入れられなかった。 「まあ。皆睡眠珪化することは避けられないんだから。私が眠ったら、お父さんの隣に設置してね。気が向いた時に何か供えてくれればいいから。」  母はもう眠ることを受け入れている。それは弟も同じだろう。私のように眠ることを疑問に思う人間など他にはいないのだ。たった一人、アキを除いて。 「ああ。わかったよ。父さんの隣に置くよ。」  私の発言の真意を母が理解しているとは思えなかったが、私にはそう伝えるしかなかった。  いつものようにゆっくりと歩き、十分に時間をかけて学校に着いた。もう十時前だが変わらぬいつもの登校時間だ。教室に入る前から妙に校舎全体がしんとしていた。教室の立てつけの悪い引き戸を開けると、教室には五、六人の生徒しかおらず、皆ぼんやりと窓の外を一様に眺めている。近くの同級生になんか登校しているやつが少ないな、皆風邪かとうそぶいてみたが、容易に想像していたとおり同級生からの回答は、皆珪化したらしいよという予想通りのものだった。そうかと、つぶやいた言葉がしんとした教室に吸い込まれる。  担当のヤマ先生が教室に入ってきて淡々とホームルームは終わり、授業が始まった。がらんとした教室内では水素結合がどうだ、ファンデルワールス力がどうだ、同位体がどうだといった化学の授業が続いているが、その言葉は宇宙線ミュー粒子の如く私達の体を通り抜けていく。ヤマ先生は化学の教師だった。私はヤマ先生のことを気に入っていた。先生は飄々としていて、私達生徒に対して何かあついものを押し付けてきたり、どこかで聞いたことのあるような教訓めいた台詞を口にすることは決してなかったがヤマ先生が化学、そして自然科学に対して真摯な態度で接していることは先生の授業を聞けば、私には良くわかった。睡眠珪化症がここまで急速に広がってきていることに対し、ヤマ先生がどのように考えているのか、先生の意見を聞きたかった。それになぜ皆この現象を疑念も持たずに受け入れているのか。受け入れていないとしても、不満や不満を口にすることはなく淡々と世のルールに従っているのかと。ヤマ先生の授業の後にいくつかの授業があったが、上の空だった。いつもより授業数が少なかったのは、教師三人が珪化してまったかららしい。アパートを見に行った同僚の教師がアパートの一室の布団の中で珪化している同僚を見つけたらしい。これは同級生が教師から聞いたらしかった。ただ皆の顔色を見ても悲壮感はあまりない。淡々と固まっていく人々に対し、なにも感じないのか。  最後の授業が終わるのを待って、私は帰り支度をすると職員室へと向かった。睡眠珪化症は三百年前からわかっている症状で、かつて病で死亡するものもいたらしいが、少なからずこの症例を発症して永久睡眠に入ることは皆理解し、避けられないものであることは歴史的にも教育されている。そしてそれは恐れることではないのだと。ただ、今私は永遠の眠りにつくことを紛れもなく恐れていた。私は他人が語った現象にについて伝え聞いたものではなく、科学的にこの現象を語ってくれる人を探していた。職員室に入るとヤマ先生は職員室の窓際の一番奥の席に座っていた。誰かが先生の前に立って話をしていた。アキだった。私の存在に気が付いた先生が手招きをしている。アキは私の存在に気が付いていないかのように夢中に先生の話を聞いている。 「おお。タネ。なんか話あるか。」 「はい。先に話してしまってすみません。最近爆発的に増加している睡眠珪化症について先生の意見を聞きたくてきました。化学教師として先生が感じていることを知りたくて。」 「ああ。そういうことか。アキも同じ質問で私の所に来たんだ。ちょうどよかった。もう話してもいいだろう。二人にこれまでに俺がこの症状に対して把握している所感を伝えよう。おそらくこういうことだということはわかる。」  アキは私に目線を合わせないようにしているのか、じっとヤマ先生の方を見ている。 「今週あたりから、睡眠珪化症の発症者が爆発的に増えたのは知っているな。噂では知っているかもしれないが、三人の教師が学校に来なかった。三人を見に行ったのは私だ。三人とも布団の中でキラキラと光る多晶質の固体になっていたよ。綺麗なものだった。三人の先生に昨日会った時、体の動きは少し不便そうであったが、珪化はそこまで進んでいなかった。この一日で体組織の結晶化が進行したのだ。猛烈な結晶成長速度だよ。登校している生徒も激減しているのはわかっているだろう。すべてを確認してわけではないが、皆珪化しているだろう。この急増には理由があるはずだと思った。私も君たちと同じことを考えたわけだ。思うに、これはシンクロニシティという類のものではないかと私は思っている。これは意味のある偶然の一致であり、複数の出来事が意味的関連を呈しながら非因果的に同時に起きているということなのではないか。」 「昨日活動していた人が明日には固まって動かなくなるというのはありえる話なのでしょうか。化学的に考えてみても。」  耐え切れずに、アキが口をはさんだ。それは当たり前の不安だ。なぜか皆はそのことを口にしないが、私もそれが気になった。 「それは周囲の環境が整えば、発生しうる現象だ。結晶の成長というのは日々少しずつ年輪を刻むように成長していくものだと思いがちだが、そういう成長もあるのだが、一晩にして急速に結晶化することもある。いわゆる過冷却という状態だ。」 「それはわかりました。ただ、そんな状況になっても学校や社会が大混乱しているようには見えないんです。皆冷静にこの状況を受け入れているように見えるのはなぜなのでしょうか。諦めているだけなのかもしれないのですが。」  アキの危機迫る質問に、ヤマ先生は顔をそむけ、窓の外へ視線をずらした。 「クラーク数という言葉を聞いたことはあるか。これは、地殻、つまり地球表層に存在する元素の質量を単純に比較したものだ。そんなものどうやって調べるのかと思うだろうが、地球科学者が過去に地球表層の存在する岩石の種類と分布から大まかに見積もったものだ。それによると、多い順に、酸素、ケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウムとなっている。人間の生命活動にとって必要な酸素が最も多く、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム等が上位にくることは納得がいく。ただ、一点気にならないか。ケイ素って人体にとってなんの役に立っていたのだろうかと。」  夕焼けが窓から見える。他の先生の姿は見えない。もう帰ってしまったのかもしれない。学生はもちろんもう帰宅しているだろう。校舎には私達三人しかいないのかもしれない。もしかしたら私達三人以外は地球上で皆眠ってしまっているのかもしれない。そんなことを考えると、ぞっとしたものが背筋を走った。 「ケイ素ってもしかして、珪化睡眠症のケイ素のことですか?」  アキの質問にヤマ先生がぴしゃりという。 「もちろん。それ以外のケイ素があるか。私達の体を構成しているものは何かわかるか。」 「タンパク質ですか?」 私がおずおずと答える。 「そうだ。間違っていないが、アミノ酸と答えてもらいたかった。アミノ酸は、アミノ基とカルボキシル基の両方を持つ有機化合物ということはわかっているだろう。有機化合物は主に炭素から構成されている。私達の体はほとんど炭素でできているんだよ。形を変えてもね。燃やしてしまえば骨しか残らない。それ以外は炭だ。燃やしてしまえば。」 「それが睡眠珪化症とどう関係あるのですか?」  アキがイライラとした調子で声をあげた。 「二人ともわかっていないかもしれないけれど、睡眠珪化症というのは体組織を構成する炭素が少しずつケイ素に置き換わっていく現象だ。珪化木というものがある。珪化僕は突如周囲の環境の変化によって湖底に沈んだりして無酸素状態のまま腐敗が進まずに地下に埋没した木などの有機物が長い時間をかけて少しずつ他の元素に置き換わり、それがケイ素だった場合、珪化木となる。不思議なのは体組織がケイ素に入れ替わったとしても、人間の生命活動が継続していることにこの現象の奇妙さがある。なぜ、光輝くカチカチのこんな体になっていても人間は息を吸い、静かに眠っているのか。」  アキは何も言わない。立ったまま眠って珪化してしまったのではないかと思う程静かだった。 「ここからは完全な私の推測になるので、一教師としてではなく自然科学を愛する中年独身男性のたわごとと思って聞いてほしい。人類の生命活動における効率化は人間を必要としなくなった。人類は全体としての生命活動を維持し続けるためには、過大になりすぎた。それが三百年前の話。そして大戦が起き、なぜかそのタイミングで睡眠珪化症という不思議な症状がぽつぽつと発見され出した。珪化人が少しずつ増えていった。さらに今回のタイミングで爆発的に症状が発症した。何かおかしいと思わないか。段取りが良すぎるだろう。自然現象はもっとシンプルだ。何かこねくり回した後の結果がスマートすぎると思わないか。」  ヤマ先生の話は加速していった。私の脳内にはてなマークが延々と続いている。 「珪化睡眠症が誰かによって仕組まれていたということですか。」  アキが大きな声を出した。横を見ると夕日に照らされているにもかかわらずアキの横顔は青白かった。 「私の憶測だと言っているだろう。ただ睡眠珪化症の〈目的〉は人間の体組織中の炭素をケイ素に置き換えて次の世界につなげることではないかと私は妄想している。置き換えておく期間は人間の生命活動が再び必要となる時までというわけさ。睡眠珪化症は人間の体組織を保管しておくための仕組みなのではないかと私はそう憶測している。」  カンの鈍い私でもやっとヤマ先生の言っていることを理解することができた。 「これから人類は一万年弱の有史で初めての睡眠紀に入るのだろう。三畳紀、ジュラ紀、白亜紀、古第三紀、第四紀の先に、睡眠紀が続くのだろう。生命活動が一切なくなったすべての人間が眠る時代が。睡眠珪化する理由は地球にとって、人類が活動する意義がなくなったから。至ってシンプルな話さ。生命活動の必要がある時は目覚め、必要がなければ寝ているというのがあるべき姿だろう。次に私達の目が覚めるのは人類という種にとって自らの生命活動が必要になる時。」 「仕組まれていたんですね。」 「すべて憶測だと行っただろう。事実は別の所にあるかもしれない。」  ヤマ先生はそう言ったが、アキはすべて納得しましたと小さな声で言った。 私はヤマ先生に最後の質問をした。ヤマ先生は把握していることをすべて私に教えてくれたと思った。 「先生の言っていることはわかりました、でもなぜ混乱なく皆眠りについていくのでしょうか。」  ヤマ先生はふうと息をついてなんでだろうなとつぶやいた。横でアキが私に小馬鹿にしたような表情で見ている。職員室に来て、やっとアキと目があった。そしてアキは私にふっと鼻から抜けるような表情を向けた。穏やかな表情だった。 「それじゃあ。遅くなってしまったけど、早く下校しろよ。おあつらえの場所を見つけて、ゆっくり眠るといい。俺はもうちょっと、仕事が残っているから。」  私達はヤマ先生の言葉に背中を押されて、職員室を出た。廊下にある小さな小窓から職員室の中を見ると、ヤマ先生の机には結晶質の小さな塊がキラキラと光り輝いているのが見えた。
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