1. 一希、自称「荘周の蝶」と語り合う

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 那々(なな)が、カップをソーサーの上に置いた。弾みで、コーヒーの液面がカップの中で小さく揺れる。それを、彼女は弧を描いた双眸で眺めた。 「今の私は──そうね、いわば『荘周(そうしゅう)の蝶』だから」 「……蝶?」 「あれ、今の若い子は知らないんだっけ? 『栩栩然胡蝶也』(くくぜんとしてこちょうなり)」  不思議そうに目を瞬かせた一希(いつき)に、那々が悪戯めいた紫の笑みを、それこそ蝶の羽のように翻す。 「それはともかく、興味があるのよ。私の今の状態が、仮に意味があるとして、がここから、心配や不安をラーニングするのかどうか」  那々の笑顔の裏で、猫を瞬殺できそうな好奇心が湧き起こるのを、一希は確かに見た。  と同時に、彼の中でも好奇心が動き出す──彼女の好奇心の内側を、絵にしたい。そのために、彼女の物語を知りたい。「向こう」とは何処のことで、那々の言う「知人」はどんな相手なのか。彼女の好奇心が求めているものは、何なのか。  けれど、今の自分は喫茶店の店員だ。  彼女を観察したい自分の欲をグッと引き下げて、一希は店員としての応対に徹する。 「楽しそうですね」 「そうね。この状況にも慣れてきたし──あ」  くるんと目を丸くした那々が、コーヒーから一希へと視線を転じる。 「そうだ、キミのお母さんの執筆した本は、私の研究の原点だよ。宜しく伝えてくれると嬉しいな」 「え?」  今度は、一希が瞠目(どうもく)する番だった。
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