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那々が、カップをソーサーの上に置いた。弾みで、コーヒーの液面がカップの中で小さく揺れる。それを、彼女は弧を描いた双眸で眺めた。
「今の私は──そうね、いわば『荘周の蝶』だから」
「……蝶?」
「あれ、今の若い子は知らないんだっけ? 『栩栩然胡蝶也』」
不思議そうに目を瞬かせた一希に、那々が悪戯めいた紫の笑みを、それこそ蝶の羽のように翻す。
「それはともかく、興味があるのよ。私の今の状態が、仮に向こうでも意味があるとして、あの子がここから、心配や不安をラーニングするのかどうか」
那々の笑顔の裏で、猫を瞬殺できそうな好奇心が湧き起こるのを、一希は確かに見た。
と同時に、彼の中でも好奇心が動き出す──彼女の好奇心の内側を、絵にしたい。そのために、彼女の物語を知りたい。「向こう」とは何処のことで、那々の言う「知人」はどんな相手なのか。彼女の好奇心が求めているものは、何なのか。
けれど、今の自分は喫茶店の店員だ。
彼女を観察したい自分の欲をグッと引き下げて、一希は店員としての応対に徹する。
「楽しそうですね」
「そうね。この状況にも慣れてきたし──あ」
くるんと目を丸くした那々が、コーヒーから一希へと視線を転じる。
「そうだ、キミのお母さんの執筆した本は、私の研究の原点だよ。宜しく伝えてくれると嬉しいな」
「え?」
今度は、一希が瞠目する番だった。
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