1. 一希、自称「荘周の蝶」と語り合う

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 12月初旬の乾燥した寒風を伴って、出入口のドアベルが鳴る。  いつもならこのタイミングで、マスター・ジョージの落ち着いた「いらっしゃい」が響くのだが、今日は勝手が違った。 「いらっしゃいませ」  接客にしては少々明るさを欠くものの、響きの良い低音のはっきりとした挨拶が、戸口に立つ客を出迎える。  声の持ち主である青年が、ちょうど最後のテーブルを拭き終え、出入口の方に向き直った。  スリムだが単なる痩躯ではない規格外の長身に、オレンジブラウン色の短髪が彩る端正な顔──新人バイトの神楽一希だ。  大学生活にも慣れた少し前から、授業の合間を使った平日の日中を中心に、一希はCafé Jorgeのキッチンスタッフとして働いている。店員としてはまだ日が浅いものの、袖を半分ほど捲った白シャツ、黒のパンツにソムリエエプロンというシンプルな格好での彼の立ち姿は、店の雰囲気によく馴染んでいた。  今日は、この季節特有の流行り病や予定などが重なって、他のスタッフは全員休んでいる。しかも、客足の途切れたタイミングでジョージが役所に出向いており、店は目下、一希一人だ。とはいえ、Café Jorgeでは新人でも、別の店で働いた経験もある一希にとって、この規模の店を一人で回すことは苦ではない。ジョージも、その辺を買っての外出だ。  一希は、落ち着き払った態度で客に向かって一歩踏み出した。 「どうぞお好きな席に──」
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