第4話 彼氏を母親に寝取られる

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第4話 彼氏を母親に寝取られる

「もしもし……和久(わく)。ねえ……和久。和久。わたし……もうだめ。娘の顔を見ると憎たらしくて……どうしようもないの。すやすやと安らかに眠っている娘の顔を見ていると……、辛いことも苦しい事も当然助けてくれるでしょ、当然だよね、って声が聞こえてくるようで……、そういうとき、わたしったらついつい逆らいたくなって……、そんなことない、わたしあなたを傷つけることなんて簡単にできちゃうよ、って……言い返したくなるの。でも、でもね和久……。わたし本当にそんなことはしないよ。わたし母親だから……、お母さんだから……、そんなこと天に誓って絶対にしない。でもお母さんなのに……、わたしはこんな事を考えちゃう……。ああ神様。わたしに蛇口をください。溢れんばかりの愛情が出てくる蛇口……。そんな蛇口があれば、わたし水道料金なんか気にしないで朝も夜も毎日いくらでも捻り続けるのに。蛇口を捻ったらわたし、どんなに苦しい時でもどんなに辛い時でも、常に娘を大事にすることだけを考えて、娘のために尽くして、娘に微笑み続ける。そしたらわたし母親になれるのに。すてきなお母さんとして胸を張って生きる事ができるのに。ああ和久……。ところで蛇口って……どっちに回すんだったかしら……」 「反時計まわり!」  和久はそう叫びながら腕時計を見た。時刻は午前十時三分前。 「ごめんごめんごめん花梨(かりん)。いま急いでるから。また後でかけ直すね」 和久は携帯を制服のポケットの中に放り込むと、大慌てで売り場へ駆けた。フロアには百貨店の開店を告げるアナウンスと音楽が流れている。 「おはようございます。朝の光を浴びて、大木百貨店開店です。本日も心をこめお客様をお迎えいたしましょう」  和久が婦人靴売り場へ滑り込むと、先輩の鹿島が渋い顔をした。和久は苦笑いで頭を下げながら、何食わぬ顔で鹿島の隣に立つ。音楽が終わったのを見計らい、和久と鹿島はゆっくりと頭を下げた。 「いらっしゃいませ。御来店ありがとうございます。ごゆっくりお過ごしください」  客が来ようと来まいと、開店時、百貨店の販売員は各売り場で整列し、一斉に頭を下げなくてはならない。今日は、七十過ぎの女性が一人通り過ぎた他はまだ誰も婦人靴売り場には来ていない。頭を下げたまま、鹿島が小声で和久に言う。 「津久井さん、この間の休みが終わってからずっとだけど、掃除と朝礼が終わった後にするっといなくなるのやめてください。開店のアナウンスに間に合えばいいわけじゃないんです。早く抜けようとしてディスプレイの整頓がいい加減になってるの、気付いてますからね。お客様がいらっしゃらない時にやっておけばいいや、ぐらいに思ってるのかもしれませんが、それでは甘いです」  鹿島の言うとおり和久は手を抜いて靴の整頓をしていた。辻褄合わせのように後でやっていたのが、やはり良くなかったようだ。 「すみません、気をつけます」 「最近バイトの子にも多いのですが、売り場に携帯を持ち込んで、隙あらばちらちらとSNS覗いてるの、あれは良くありません。いいねが無いか分刻みで確認してるのでしょうが、そんなに頻繁につくかっつーの」 「えっと、私はSNSではないんです。友達の相談に電話で乗っていて」 「友達の相談なんて、あとでじっくり聞いたらいいじゃないですか。何もそんな慌ただしい時間を縫って聞かなくても」 「いやあ、それがそうもいかなくて」  和久は自分の携帯の履歴を思い浮かべた。一ページ目も二ページ目も和久の携帯の履歴は一人の人物の着信で埋まっている。 「もしかして、エレベーターガールの子?」 「ああ……、いいえ、彼女じゃありません。違います。高校時代の友達です」 「彼女以外にもまだいるのか。彼女一人だけでも強烈なのに、津久井さん、変な子に好かれすぎだと思う。大人しいからかね。それとも、そういう星の下に生まれたのか」 「はあ……、ともかく、もうしません。勤務時間中は業務に集中します。すみませんでした」  和久は深々と頭を下げた。  出迎えの挨拶を終えてから、やりかけだった靴のディスプレイに取りかかる。鹿島担当のハイエンドブランドのシューズは美しい角度で均一に並べられているが、和久の担当のトレンドシューズは一見ちゃんと並んでいるように見えて、前日の客が触った後が感じられる。 「津久井さん、ディスプレイが終わったら在庫の確認お願いします。顧客リストと型番をしっかり確認してから発注すること。倉庫の奥に脚立があるので、届かなかったらそれを使って下さい。むやみにジャンプしたら、前みたいに崩れるぞ!」
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