第3話 水族館

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 ひよりはいつもより多く巻いた髪を揺らし、丈の短いスカートで現れた。羽織っているカーディガンはただの飾りで、五月はまだ肌寒いと自分で言ったくせに自慢の胸を大きく露出させている。生地の黄色よりもひよりの肌色の方が随分と目立ち、和久は恥ずかしさのあまり目を逸らす。 「まったく、水族館なんて随分前に和久と来たきりよ。もう一生来ないものだと思っていたわ」  ひよりは大声でそう言うと、つんと尖った爪先を水族館の絨毯に喰い込ませた。  午前九時を少し過ぎ、開館したばかりの水族館はひっそりとしている。朝一番の平日ということもあってか、辺りを見まわしても客は和久達三人以外まだおらず、いるのは魚ばかりである。静かな青の世界にひよりの大きな声はけんけんとよく響く。 「あたしと和久が水族館へ来たのはいつだったかしら」 「そうだね、前に来た時は中学生だったから、十年前じゃないかな」 「ふうん、もうそんなになるかしら」 「うん。でも、前に来たのは、能登にある水族館だよ。この水族館じゃない」 「分かってるわよそんなこと。まったく、どうしてこんな地味な県に水族館を二つも作るのかしら。新しく作ったって、大量の水と魚がいるっていうだけで、どうせ差なんてないんでしょ。新しく建てるなんて生意気だわ」  確かに、石川県には二つの水族館があった。ひとつは能登にある大規模な水族館で、もう一つは今和久達がいるうしお水族館だった。水族館へ行きたい大概の人間は、観光客も含め能登の方へ行く。それに対してうしお水族館は小規模で、三年前にオープンしたばかりであるにもかかわらず、それほど人気は無い。  しかしうしお水族館だって、オープン当初はそれなりに人気があった。うしお水族館なりに、二つの物を売りにして頑張っていたのだ。売りにしていた二つの物、それは、水中エレベーターとバンドウイルカの赤ちゃんだった。  水中エレベーターは読んで字の如く、水中にエレベーターがあるのである。水中エスカレーターを実装している水族館は他にあるものの、エレベーターはないというので、当時大いに話題になった。しかしオープン前日に欠陥が見つかり、使用は中止になった。漏水して使い物にならないのだそうである。水族館側はいつか直るものと見込んで宣伝を続けていたが、結局金銭的な問題によりエレベーターは修復されなかった。三年経った今も無論修復はされておらず、これには客も大いにしらけた。  バンドウイルカの赤ちゃんは、これもまた、読んで字の如くバンドウイルカの赤ちゃんである。イルカの妊娠が発覚してからすぐに、うしお水族館は地元のニュース番組と提携してその様子を毎週テレビで報告した。胎内の様子をエコー写真で説明したり、出産の様子を特集で組んで紹介したり、授乳の様子を見せたりしたおかげで、人々はこのバンドウイルカの赤ちゃんに大きな親近感を持つようになった。実際、このイルカの赤ちゃんを見るために、うしお水族館にやって来た人は多かったらしい。  ところが生後六カ月で赤ちゃんは死んでしまった。県内に住む女子中学生が夜中に忍び込んで殺してしまったのである。  イルカの赤ちゃんの死は水中エレベーターよりもずっと衝撃が大きかった。また、事故ではなく中学生の、しかも女子の手によって起きたということが人々の不快感を煽った。女子中学生は後にこう言った。赤ちゃんというものを殺してみたかった。  和久はこの赤ちゃんイルカをテレビで数回しか観た事がなかったが、それでもこの事件に薄気味悪さを覚えた。入館者数もこの事件を境に激減したという。  現在、客が和久たち三人だけなのは、開館直後だからでも、平日だからでもないのかもしれない。
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