第3話 水族館

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「ねえ和久、パンフレット見せて」  ひよりが和久に手を差し出した。ひよりの爪はいつもよりきらきらと輝いている。和久がパンフレットを差し出すと、少女のような声をあげて館内の地図のページを広げた。  二階建ての小さな建物である。一階には地元の川で見られる淡水魚を中心とした展示、二階には海水魚を中心とした展示になっている。建物の中央には二つの階を貫くドーナツ型の大きな水槽がそびえ立ち、中ではマダイやヒラメ、マイワシの大群など細かいのが所狭しとひらひらと舞い泳いでいる。これこそ水中エレベーターらしきものが通るはずだった水槽である。パンフレットのこの場所には『水中エレベーターは現在ご利用いただけません』と素っ気なく書いてある。 「ねえ、イルカは水中エレベーターの奥だって。絶対に見ようね。イルカ」  ひよりが無邪気に言った。 今回、うしお水族館に行きたいと言い出したのは他ならぬひよりだった。和久と悟郎は能登の水族館へ行くつもりだった。  ひよりはバンドウイルカをどうしても見たいらしかった。能登の水族館にもバンドウイルカはいるだろうと言っても、ひよりは頑なに譲らなかった。  パンフレットを指すひよりの隣で、悟郎はぼんやりと近くの水槽を眺めている。  悟郎はひよりに会うのが楽しみだと言っていた割には、さして興味を示さず、大した会話もせず、素っ気なくどうもと言って頭を下げただけだった。媚びたような愛想笑いもせず、緊張に顔を引き攣らせるでもなく、ただ淡々としていたので、それがひよりを面食らわせたようだった。 「ねえ悟郎くん、魚じゃなくてこっちの方が面白いわよ。こっちを見たら良いわよ」  ひよりが身を捩って自分の胸を突き出した。悟郎は顔色一つ変えずに「はあ」と言った。  悟郎は「わかりました」と答えると、三秒くらいひよりの胸を見て、何事も無かったかのように水槽に視線を戻した。  ひよりは悟郎のひらひらと宙を舞う一枚の紙のような笑顔を知らない。彼は紙そのものなのである。ひらひらと舞う紙はなかなか捕まえられず、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、追いかければ追いかける程おかしな所へ飛んでしまう。 「信じられない。悟郎くんて会話というものを知らないの。まるで子供よ。幼い。断然幼いわ」 「幼いったって、同い年だよ」  ひよりが肘をぎゅっと抓ってきたので、和久は思わず顔をしかめる。  水族館も悟郎にとってはキラキラした場所なのだろうか、随分とめかしこんでいる。しかし足元を見るとスーパーで三千円で売っているような靴を履いている。彼は服は気にするくせに、髪型と靴と眉にはまるで気が回らないのである。その頓珍漢な格好もひよりは気に入らないらしい。隙あらば和久の耳元で、おかしい、おかしい、ださいと囁いていた。
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