第3話 水族館

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   それから小一時間、ひよりは魚などそっちのけでずっと悟郎に話しかけていた。 出身地や通っている大学や余暇の過ごし方、好きな食べ物、嫌いなスポーツ、悟郎の返答に少しでも隙があれば無理にでも自身を捻じ込み、何が何でも悟郎と自分の気が合うことを証明したがった。  ひよりは最初、悟郎をどう扱っていいか分からなかったようだが、次第にコツをつかんだらしかった。悟郎の淡々とした反応にいちいち大袈裟に身を揺すって笑い、悟郎の肩に身体を預け、肩を叩き、腕を絡めたりして上手くやり過ごしている。  一階の大方の水槽を見た所で、イルカは最後のお楽しみにしようということになった。階段で二階に上り、ひよりは化粧を直すと言ってトイレへ行った。和久と悟郎はとにかく座りたかったので、ソファのある場所を探し求めた。結果、クラゲの水槽が集まる部屋でひよりを待つことになった。  部屋の中央のソファに腰掛け、和久と悟郎はクラゲの踊る青の中に身を沈めた。二人の溜め息が青い色に溶けていくようだ。 「ひよりさんって他人に凄く関心のある人なんだね。初対面の人間にあんなにぐいぐい来られたの初めてだ」 「それだけ悟郎くんに興味があるってことだよ」 「俺なんかに興味を持たれてもなあ。でも、ひよりさんの中には確かに和久の欠片があった」  心なしか悟郎の目がきらりと煌めいた気がした。  水の中に差し込む光が珍しい柄の帯となり、水槽の中いっぱいに広がっている。そこを通るクラゲ達は、皆その不思議な柄を身に纏っている。  和久は光に惹かれるようにガラスの方に手を伸ばした。しかし和久の手にはその柄は映らない。和久の手は照明のせいでただ黒い影となって重く存在しているだけである。 「綺麗だけど、何だか閉じ込められているみたいで、苦しいね」  悟郎が息を吐いた。彼は暗い顔でアクリルガラスに触れ何度も撫でていた。一見薄く見えるガラスも実際は随分と分厚いのである。確かにこの狭い部屋では閉塞感が随分と色濃く感じられた。  悟郎は助けを求めるように和久の手を包んだ。和久はそれに応えた。悟郎の腕と和久の腕がくっついて、二人は一つの影になる。  冷たくて暗い水の底で、和久は悟郎の暖かさを蝋燭の光のように感じた。 「水族館ってこんなに不安になる場所だったかな。水の中って不思議だ。静かで、神秘的で、何が起こってもおかしくないような、未知の世界だ」  悟郎が珍しく気弱な事を言った。和久は元気づけるように軽口を叩く。 「何、悟郎くん、もしかして泳げないの?」 「まさか。俺は小学校の頃三年間水泳をやってたんだぞ。一級まで取ったのに」  聞けば悟郎の茶色い髪の毛は、和久とは違って染めたわけではなく、プールの塩素で抜けてしまったものらしい。水泳を辞めてから十年以上経った今、これでも随分と黒くなってきたという。確かに、悟郎のがっしりとした肩幅は水泳で鍛えた証拠に思えた。水泳の話が続きそうだったが、大して泳げない和久は上手く聞き手にまわることもできそうにないため、水族館に話を戻した。  青い中にたゆたうクラゲを眺め、和久は呟く。 「静かで、神秘的で、何が起こってもおかしくないような水の中。もしも宇宙に行ったなら、こんな感じになるのかな」 「宇宙か。どちらかといえば、俺は宇宙より、お母さんのお腹の中に似ていると思うよ」 「何それ。水に囲まれているから?」 「それもあるけど……、神秘的ってところが一番かな」  和久と悟郎の前をクラゲ達がふわふわと泳いでいく。二人の会話をひよりが聞いたら、またつまらないと言って怒るかもしれない。和久はこの分厚いガラスを擂り粉木一つで叩き割り、青い世界の中をたゆたう生物達を滅多打ちにする、そんなひよりの姿を想像する。 「お母さんのお腹の中にも、クラゲが泳いでいるのかな。マダイやヒラメやイワシの群れが泳いでいるのかなあ」  イワシかあ、と悟郎が呟きパンフレットを開いた。イワシの群れのいるドーナツ型水槽の欄に、イワシの敵を同居させることで、イワシの群れを作らせているという説明が書かれている。 「だったら、お母さんのお腹の中にも敵が泳いでいるのかもしれないね」 「敵。敵かあ。お母さんのお腹の中にいる敵って、なんだろう」  その時、クラゲの部屋の出入り口にふっと人影が現れた。影は二人に向かって手を振っている。 「ねえ、イルカ見に行こう、イルカ!」  ファンデーションのよれがなくなり、唇を青い光の下でてらてらとしっかり光らせているひよりは上機嫌で笑っている。悟郎が立ち上がり、二人の腕は離れた。瞬間、確かにあった腕のぬくもりがふっと消え、和久はどきりとした。  どきりとしながらも、それを悟られぬよう顔を上げ、和久は明るい声を出した。 「まったく、あんまり大きな声を出さないでよ。お母さん」  和久がそう言うと、ひよりは一層大きな声を出し、子供のような声でイルカイルカイルカと叫んだ。
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