第3話 水族館

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 現在うしお水族館では、平日にイルカショーは行っていないらしかった。客の数を考えれば当然かもしれない。和久達はプールの底をゆったり旋回しているイルカたちを眺めることにした。和久はひよりの様子をちらりと見たが、彼女はショーへのこだわりはないようで、はしゃぐようにしてガラス越しにイルカを見ていた。  イルカショーといえば、和久は十年前のイルカショーを思い出す。ひよりと一緒に来た能登の水族館での出来事だ。  ひよりは今も昔も地元の小さな建設会社の事務員として働いている。その会社は事務員が一人しかいないので、自然ひよりが独りで仕事を背負うことになる。朝は早く、夜は遅い。休みかと思って家でゆっくりしていると、急に携帯電話が鳴って、すぐに家から飛び出して行く。休みたいとはひよりは一言も言わなかった。ひよりの口癖は、 「休んだら誰があんたを養っていくの」 である。  和久には父親がいない。この世のどこかにはいるのかもしれないが、父親が誰なのか分からない。顔も名前も知らなかった。ひよりは十九の時に一人で和久を産んだ。知らされている情報はそれだけだ。それ以外について聞こうとすると、途端にひよりの機嫌が悪くなった。だから和久はそれ以上聞けずにいた。聞こうと思えばいくらでも聞けるのだと思う。一度も会ったことのない祖父母に頼んで聞けば、分からないこともないのだと思う。しかし、父親と食器棚を天秤にかけると、いつも食器棚が勝ってしまう。  友人達には皆、父親がいる。こっそりお小遣いをくれたり、家でごろごろしていたり、母親とケンカしたり、勉強しろと言ってきたりする。けれども和久の住む賃貸マンションには、ひよりが一人いるだけだ。ひよりが仕事で家を飛び出して行く時、その華奢な背中に、大きくて暗くて重い物が圧し掛かっているのが見える。普段のひよりは、そんな物に負けそうにないように見える。特に、食器棚を壊しにかかっている時は、そんなものは大声あげて一撃で破壊できてしまえるような気がする。だけど、ひよりが眠っている時や、テレビをぼんやりと見ている時、彼女はそれらに打ち負かされてしまっているように見える。彼女が、ひどく弱い、どこにでもいるような一人の女性だということを知らされてしまう。それを見ると、和久は何も言えなくなる。  そんなある日、ひよりが急に水族館に行こうと言い出した。中学二年生の秋の日曜日のことである。ひよりはいつもよりはしゃいでいた。水槽の魚をいちいち指差して、まるで小学生の女の子のようにきゃあきゃあ喜んでいた。和久はそれに頷きながらも、上の空だった。とうとうひよりが、和久に言った。 「どうしたの、あまり楽しそうに見えないね。何だったら帰ってもいいのよ」 「うん、本当は、帰れるんだったら、帰りたい。明日から定期試験が始まるから、帰って、勉強をしたい」  和久は顔を上げ、素直にそう言ってしまった。明日から三日間の定期テストが始まるのだ。今回の範囲はとても広く、課題のワークだけでも百ページを超える。特に数学の証明問題は和久にはほとんど分からなかった。中学二年生にもなって、親と水族館に行っている場合ではない。  ひよりはそれを聞くなり鬼の形相になった。和久の手を激しく振り解き、 「帰れ!」 と言った。他の客が魚ではなくも和久たちを見た。 「あたしだって、別に水族館なんて来たくなかったわよ。水族館なんて、魚屋と違って一匹も魚を食べられないのよ。二千円も払って一匹も食べられない水族館に何の価値があるっていうの。二千円あったら一体何匹食べられると思ってるのよ。そんなの魚屋の勝ちよ。圧勝よ。あんたがね。あんたが。あんたが嫌だって言うならとっとと帰ればいいんだわ。帰ってつまんない課題でも何でもやってなさい!」  ひよりはそう吐き捨てると、どこかへ行ってしまった。和久に帰れと言いながら、自分が帰ってしまったのだ。  和久はどうする事もできなくて、館内をうろついた。帰り方が分からない。財布の中には三百円しか入っていない。能登半島から金沢市なんて地図上から見ただけでも距離がある。とても三百円で帰ることのできる距離ではない。とりあえず座る場所を求めた。そうしていたらイルカショーに辿り着いた。  和久はイルカショーを見ながら、頭の中で、三角形ABCが二等辺三角形である理由を述べようとした。三角形DEFと同じ面積の三角形を平行四辺形の中から探そうとした。三角形GHIとJKLが合同であることを証明しようとした。しかし思い描いた三角形の中を、イルカがジャンプして潜り抜けて行ってしまう。  結局、閉館時刻ぎりぎりまで水族館に居た。途方に暮れて外に出ると、ひよりが仁王立ちして待っていた。ひよりは和久を見るなり、剛速球で何かを和久に投げつけた。見事なフォームだと思った瞬間に、和久の目の中で火花が弾けた。 「帰るわよ」  ひよりはそう言って車のドアを開けた。ひよりの投げつけた物は青色のクッキー缶だった。イルカやクジラの形になったクッキーの入ったよくある土産物である。和久の額に当たったために縁が少し変形していた。和久の額も少し切れていた。  ひよりが水族館に行きたくなかったというのは多分本当だ。いやにはしゃいでいたのも本当のところは芝居なのだ。ひよりが怒った理由を和久は知っていた。帰りたいと言った和久にひよりが腹を立てたのは、帰りたいという言葉を予期できなかった自分に腹が立ったからだ。苛立ってどうしようもなくて、居ても立ってもいられなかったのだ。  和久は唇を噛んだ。自分の中のもやもやが濃くなっていくような気がした。自分の本心ではないけれども、謝らなくてはいけないと思った。 「お母さん、申し訳ありません」  うっかり敬語で謝ったら、芳香剤をぶつけられた。
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