第3話 水族館

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 それを覚えているのかいないのか、ひよりは無邪気にイルカの泳ぐプールを見つめている。 「ねえ、どれが赤ちゃんを亡くしたイルカなのかしら。ぜひ見たいわ。飼育員に聞けば分かるのかしら」  和久はぎょっとしてひよりの顔を見た。ひよりは和久の方を見ずまっすぐにプールを見ている。 「お母さん、そういうのは、ちょっと」 「ちょっと何だって言うのよ」 「気の毒かなって」 「きのどく! イルカが! きのどく!」  ひよりはげらげら笑いながら水槽を掌で叩いた。ばしんばしんという音が低く響く。 「気の毒。気の毒ね。じゃあ気の毒そうな顔をしているイルカがそうなのかしら。せっかくだから当てっこしましょうよ。悟郎くんはどれだと思う? あたしはね、あのイルカ」  ひよりは少し離れた所で旋回しているイルカを指さした。  和久の言った「気の毒」はイルカではなく飼育員へ向けたものだったのだが、今更訂正したところでどうにもならない。ひより主導で奇妙な当てっこゲームが始まり、和久達はプールを泳ぐイルカ四頭の内一頭を指差し、「何故そのイルカが赤ちゃんを亡くしたイルカだと思ったか」の理由を述べさせられた。しかし誰も答えを知らなかったので、答え合わせをしようが無かった。  和久はひよりに命じられ、水族館の係員に聞きに行った。和久達を遠巻きに見ていた若い係員は笑顔で顔を上げた。笑顔なのに不快感が露わになっていた。  客は和久達以外におらずひよりの大きな声は館内によく響く。和久達のつまらない遊びの内容を彼が知らないなどという都合の良い話はあるわけがない。 「あれです。子を失った母イルカは、あれです。ヤースカです」  丁寧な言葉に氷のような棘をいっぱい絡ませた彼の目の色は、闇よりも深く、冷たい。  指先にいるイルカのヤースカは、水底で逆さまになり、腹を水面の方に向けてゆったりと泳いでいる。 「ふうん、あれがそう。ねえ和久、思ったより気の毒そうな顔をしていないわね」  ひよりが嬉しそうに言った。反射的に和久は「すみません」と頭を下げる。飼育員は軽蔑しきった目で「いいえ」と言った。  和久がひより達の元に戻ると、ひよりは大真面目な顔でぐっと和久の腕を掴み、耳元で囁いた。 「あんた、さっき何で謝ったわけ。あれじゃあたしが悪いみたいじゃん。何で余計な事するのよ。まったく、あんたはいつもいつもあたしに恥をかかせてそれを楽しんで、本当、嫌な女」  ひよりは真面目な顔のままヒールの踵を和久の足先に喰い込ませた。爪先に電気が走った。最初は痛くなかったが、後を追うようにして痛みがどっと押し寄せた。傷口を確認したいが靴を脱がないと確認できない。  ひよりはじっとイルカのヤースカを見ていた。そしてさんざん見つめたところでぽつりと言った。 「まあそんなもんよね」  ひよりの声がゆったりとした水の流れの中に響いた。 「イルカでも人間でも同じよ。子供を失くしたからって、始終悲しい顔なんかしていられないわ。ただ人間とイルカで違うのは、イルカは悲しい顔をしなくても責められないってこと。人間だったら、母親のくせに悲しくないのかって、人一倍責められるのよ。ひょっとしたら、イルカの子を殺した中学生よりも責められるかもしれないわ。永遠に世間中から軽蔑されるの」  ひよりはもう一度ヤースカを見つめた。その顔には嘲りも冷やかしもなかった。ヤースカのつぶらな瞳は呑気だった。その瞳をひよりは嵐に挑むような顔で見ていた。 「あーあ、やだやだ」  ひよりが一層大きな声を出した。 「何でみんな子供の親っていうと母親を思い浮かべるのかしら。あたしは子イルカの母親じゃなくて、父親も聞きたかったのよ。係の人はどうして母親だけを答えたのかしら。本来だったらあそこで、赤ん坊を失くしたイルカって、父親の方ですか、母親の方ですか、って聞き返すべきだったのよ。和久、あんたもあんたよ。何勝手に納得して引き返してるのよ。勝手に母親と決め付けて。あんたもあいつも同罪よ」  ひよりが文句を言ったのを見て、和久は慌ててひよりの袖を引いた。係員の顔を見ない内に退場したかったが、爪先が痛くて上手く歩けない。  助けを求めるように悟郎の方を見ると、悟郎は立ったまま寝ていた。話が長かったのと、旋回するイルカたちを見続けたのとで眠くなったらしかった。
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