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第2話 彼氏悟郎と彼女和久
これから始まる「特別な」ひよりルールのことは悟郎には絶対に知られてはならない。
和久(わく)は悟郎の大学の人文棟に出向き、頭を下げて彼に言った。
「ごめん。今度一緒に行くはずだった水族館、お母さんが付いてくることになっちゃった」
母親がデートに付いてくるなんて普通は嫌がることだ。断られても仕方のないことだと思っていたが、悟郎は表情を変えず、ただ一言、
「うん」
とだけ言った。
あまりにも薄い反応だったので和久は驚いて顔を上げる。
「えっ、いいの? お母さん付いてくるんだよ?」
「うん、別にいい」
「嫌じゃないの?」
「別にお母さんとデートしろってわけじゃないんだろ。和久がいるなら俺はそれでいいよ」
悟郎はやはり顔色ひとつ変えることはなかった。
和久が悟郎と付き合ってから暫く経つが、どうも彼はつかめないところがある。感覚が普通ではないのだ。今だって普通なら彼女の親がデートについてくると聞けば嫌がるだろうに、悟郎は全く動じていないのである。
「お母さんなんて名前なの」
「ひより」
「ひよりさんかあ」
悟郎はそう言い、人文棟のコンクリートの地面を足先でずりずり削った。中学生の履くようなマジックテープつきの靴である。
「それで、これから何食べに行く?」
悟郎がそう言って、それきりひよりのことは打ち遣られてしまった。
地元の百貨店に勤めている和久と、大学院生である悟郎の休みはなかなか合わない。
和久の休みは平日で、悟郎の休みは土日祝日なので、特別なイベントがない限りは和久が休みの平日の夕方にこうして大学まで悟郎に会いに行くことになっている。
大抵は一緒に食事をして、その後映画を観たりゲームセンターに行ったりして適当に時間を潰して解散する。
和久が言った。
「今日は私、オムライスかグラタンが食べたい気分かも」
しかしそれを聞いて悟郎は考え込んだ。彼はきっとオムライスかグラタンなら駅前のフォーラスへ行くか、バスに乗って街に出なければならないと思っているのだろう。
悟郎はショッピングモールや街中を「キラキラした場所」と呼び、なかなか行きたがらない。彼が行きたがる場所は大抵は映画館かゲームセンターか漫画喫茶かファーストフード店である。
それでも「キラキラした場所」へ行かなければならないときはそれなりの服装で武装しなければその眩しさに潰れて死んでしまうのだと、悟郎はかつて和久に言った。なるほど今の悟郎はよれよれのトレーナーにくたびれたジーパンという格好だ。しかも靴はマジックテープつきである。
和久は助け舟を出すつもりで悟郎の袖を引いた。
「ねえ悟郎くん、私やっぱり牛丼が食べたいかも」
身長が一四五センチに満たない和久は、悟郎の顔を見る時はどうしても見上げる形になる。悟郎は一七〇センチあるかどうかといったところだが、その身長差はまるで大人と子供だ。
悟郎はそこでにっこり笑って、和久の頭を撫でる。和久は髪が短く華奢なので、その姿は幼い弟が兄に褒められたような形である。
「よしわかった。牛丼にしよう。牛丼なら安心だ。生まれてこの方キラキラしている牛丼屋なんて見たことがない。牛丼屋なら全国どの店に行ったって無敵だぞ。早速行こう」
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