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夢じゃない
あたたかな5月の陽光が射す清潔な病棟の午前。
ベッドも来客用の椅子も、どこもピカピカの個室のベッドの上で眠っているあなたは、穏やかな表情で、おとといの発作をまったく感じさせない。
私はパイプ椅子を持ってきて、ベッドで眠るあなたの枕元に座った。窓の外は今が盛りと葉を伸ばす桜の木。青い空。そよぐ微風。まったく患いのない日と言うものが年に何日かはあるものだ。今日がきっとそう。勿論あなたの病の事以外は。
「お母さん」
窓の外に気を取られていたから、突然呼ばれて驚いた。私はあなたのお母さんだ。
「奈美ちゃん、よく寝てたね。具合は?」
「いいよ。この調子だともうすぐ退院できる」
「そうだね。もうすぐだよ」
「それよりね」
あなたは布団に埋まったまま、私の持っているスマホの方に目だけを動かした。
「新曲出たんだよね「欅並木叙景」。観たい」
「そうそう。それを一緒に観ようと思ってね。奈美ちゃんのために検索しておいたよ」
「欅並木叙景」は20人ばかりの人気女性アイドルグループだ。私はスマホをあなたの見える位置に持ってくると、動画のスタートボタンをタッチした。テレビ番組で披露したその曲は、春らしい穏やかな旋律。白いドレスを着たメンバーが踊りながら歌っている曲のタイトルは「夢じゃない」。叶うかもしれない恋を前にした女の子の淡い気持を表現している。
「夢じゃな~い、夢じゃな~い、ここに立っていることが~♪お母さん、いい曲だね、これ」
「そうだね」
「これ、ホントは私がセンターだったんだよ。真ん中で歌ってた」
「そうだね。でも、もうすぐ」
「もうすぐ復帰するから」
「楽しみだね。みんなに会えるの。また活躍できる」
「うん」
今では頭を自分で動かすこともできないあなたは顎だけでうなづくと、幕が一枚降りたように目がうつろになった。
「私、ちょっと疲れちゃった。少し寝るね」
「あ。そうだね。ごめん。眼を使ったから疲労したんだね」
「眠るまでここにいてくれる?」
「うん。大丈夫だよ」
「ありがとう。お休みなさい」
「お休み。奈美ちゃん」
そして、あなたが眠りに落ちるのを待って私は病室を出たけれど、帰りの電車で受けた看護師さんからの電話でそのまま病院に引き返した。私の傍で眠りについたあなたは、昼食の前に眠ったまま息を引き取っていたのだった。
*
「お母さん。私、そろそろ出かけようかな」
あれから二か月。
7月になり、高校二年生の一人娘の夏休みは、彼女にとって人生をかけた一日から始まった。今までバッグの中の持ち物を何度も確認していた奈美は、長い髪を後ろで結び、大きく深呼吸するとダイニングの椅子を立った。
「倍率3倍かあ」
「ダンスも歌も、奈美は今まで頑張って練習してきた。いろいろ考えたって仕方ない。奈美はやることをやるだけだよ」
今日は、「欅並木叙景」3期生の最終オーディションだったのだ。全国から数万人の少女たちが応募したオーディションの一次、二次、三次試験を通過した奈美は、これから最終オーディションの会場に向かおうとしている。
「夢じゃな~い、夢じゃな~い、ここに立っていることが~♪」
「だねえ。奈美さ、その曲「夢じゃない」。おばあちゃんが亡くなる前に歌ってた歌だよ」
「え。そうだったんだ」
私の母であり奈美の祖母である小川サチは春、闘病の末、85年の生涯を全うしていた。「欅並木叙景」を目指して奈美が歌や踊りのレッスンに励んでいるのを見ていたサチは、孫を応援しつつ自らもグループのファンだったが、病に罹り入院を余儀なくされ、やがては意識が混濁し始めた。そして、いつしか頭の中では自分が孫娘の奈美となっていたのだった。さらにはあろうことか、頭の中の彼女はオーディションを次々に通過し、デビューし、グループのセンターを務めるまでになっていた。
「おばあちゃんのお母さんがお母さんって、受ける」
「得難い経験だったわ」
「おばあちゃんの分まで私、今日、頑張るよ」
「それは違うんじゃない?奈美。おばあちゃんはもう「欅並木叙景」のセンターだもん」
「そうだったそうだった。夢じゃな~い♪」
「夢じゃな~い♪」
「おばあちゃんは幸せだった」
「うん。だから、奈美は、自分のために頑張って。いってらっしゃい」
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