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夏向に背を向けてエンジンを唸らせたバスに乗り込む。
ステップを踏んだわたしの足は頼りない。まだ笑っているのは泣きそうだから。運転席の後ろに座れば、乗客を残らず吸い込んだバスが鈍く軋みながらゆっくりと扉を閉めた。
さよなら、夏向。
口にすらできなかった別れの言葉を胸に呟くと、知らずに涙が頬の上を伝い落ちた。
動き出した景色につられ窓の外を見る。ちゃんと笑顔で手を振らなければと思ったのに、透明なガラスの向こう側で、もう届かない夏向の瞳からわたしと同じ色の雫が落ちていた。
「あ……」
違う。
わたし、また間違えてる。
夏向が何も言わないから、どうにもできないんじゃない。
わたしが何も言わないから、夏向が何も言えなかったんだ。
「夏向!!」
窓に手をついても流れる景色は止まらない。
いつも、いつもいつも、大切なことは過ぎてから気づく。わたしが本当に言いたかったのは、言わなきゃならなかったのは、「元気でね」でも「さよなら」でもなかったはずなのに。
落ちていく涙の一粒一粒に二人で過ごした日々が滲む。
小さな夏向が初めて見せた笑顔。
留守番が寂しいと泣いたわたしに寄り添ってくれた夕暮れ時。
一緒に雪ウサギを作った冬の通学路。
並んだ背丈。
電車と競争するようになった朝の日課。
遅くまで教え合った受験勉強。
インターハイ予選で渡した水色の御守り。
泣きじゃくるほどにそれらが色褪せていくようで、悲しくて、悲しくて堪らない。
振動に揺られながら懸命に嗚咽に耐えていると、ふたつ先の停留所でバスが停まった。
運転席からおじさんが身を乗り出し、しゃがれた声で言う。
「お嬢さん、降りますか?」
「え……?」
涙でくしゃくしゃの顔を上げると、運転手さんはにこにこしながら窓の外を顎でしゃくった。
「随分足の速い彼氏だね」
その一言は、わたしを弾けたように立ち上がらせた。
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