45人が本棚に入れています
本棚に追加
【第一章 邂逅】
葉月さんが初めて僕に声をかけてくれたのは、校舎の渡り廊下のあの場所でしたよね。ちょうど新学期が始まった時で、校外の歩道に屹立する大きな桜の木が、淡い白を空に掲げていました。
古い校舎と増築した校舎を繋ぐ渡り廊下は各階にあって、その最上階の渡り廊下は眺めもよく、それでいて生徒はあまり通らない場所でした。僕は入学して間もなく、その特別な場所の存在に気づきました。ひとりになれるその場所がとても気に入ったので、休み時間にはそこを訪れ、窓の外の風景を眺めていました。
僕はその場所がお気に入りであることを誰にも悟られたくありませんでした。自分だけの特別を、誰にも侵蝕されたくなかったのです。誰かに知られることは、まるで心の奥の敏感な部分を汚されるようなものだと感じていたからです。
「こんにちは、ええと、阪上雅史君……だよね。英語担当の、春日です。授業中のはずなのに、ここで何をしているのかな」
突然、背中から鈴の音のような澄んだ声が響き、僕は驚いて現実に引き戻されました。
僕が葉月さんの存在にすぐに気づかなかったのは、窓の下に広がる桜の風景に見とれていたからだけではありません。葉月さんがその色鮮やかな空間に、あまりにも調和していたからに違いなかったのです。
それは不本意なことなのに、そういってはにかんだ葉月さんの笑顔は渡り廊下に差し込む春の煌きよりもずっと眩しくて、僕はつい、不機嫌になるタイミングさえ逃してしまいました。
「桜が綺麗なもので、見とれていました」
僕は窓の柵に頬杖をついたまま、あえて目を合わせませんでした。それなのに葉月さんはたおやかな躰を翻して窓際の手すりによりかかり、その細い首をかしげて僕の顔を覗き込みました。
「今だけの特別な時間って、何よりも大切だからねぇ」
その時の葉月さんのやわらかな表情は、この蒼い心を一瞬で釘付けにしました。授業なんかよりも大切な、僕の特別をわかってくれる、そんな幻想が確かにあったのです。
「こんな日は、風も心地いいはずよ」
葉月さんはそう言って渡り廊下の窓を開けました。レールが滑る乾いた音を追いかけて、白いレースのカーテンと、葉月さんの長くて艶のある黒髪が翻りました。
「まっ白な春って素敵ね。まるで雪の季節を懐かしんでいるみたい」
最初のコメントを投稿しよう!