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澄んだ言葉がこぼれた瞬間でした。桜の花びら達が春のそよ風に乗って舞い込み、葉月さんの躰を包みました。気づいた葉月さんはかすかに口元を緩め、花びらをつかまえようとして手を伸ばしました。
けれどヒールの高さが慣れなかったのでしょうか、その凛とした姿勢が突然、崩れてしまいました。
「あ……っ!」
それは葉月さんにとって恥じるべきことだったのかもしれません。
よろけた葉月さんがつい、その華奢な躰をこの僕の胸の中に預けてしまったのですから。
その時、僕は気づきました。葉月さんのすべてはシルクのように艶やかで繊細にできていたことに。葉月さんを抱きとめる僕の胸が、とくん、と深く震えました。
「だっ……大丈夫ですか、先生」
「う、うん……ごめんね、ちょっと恥ずかしいわ」
葉月さんは赤らめてうつむき、そそくさと僕から離れ、ばらついた髪を細い指でそっと耳にかけて整えました。
だけど葉月さんに触れた瞬間の、その麻酔のような感覚を忘れられるはずがありません。
一目惚れなのかもしれません。一時の気の迷いなのかもしれません。思春期男子が大人の女性に憧れるのはごく自然なことだと聞いたことがあります。けれど、形容しがたい恍惚の媚薬が自分に降りかかるなんて、夢にも思っていませんでした。
そしてその淡い色の種子がどんな密度で僕の心に根を生やし枝葉を広げてゆくのか、当時の僕は想像できませんでした。
以来、とりつかれたように葉月さんの姿を追いかけてしまう僕は、それがどうしようもない苦しみであると同時に、世界を彩る深い歓びでもあるのだと気づきました。その残酷で可憐な時間において、僕はずっと熱に浮かされていたわけです。
だから葉月さんの思いつめた表情に僕だけが気づいたのは、ごく自然なことだったのです。
ある日、葉月さんは夏の訪れを待たずして、この学校を辞めてしまうという噂を聞きました。だから僕はもう、今しかないと思い、意を決しました。
そう、この気持ちの行き場が失われる前に、必ず葉月さんに届けようという、人生最大の決心です――。
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